はしがき
文章を書くという事は実に面白い。
太古から人々がやってきたわけである。
私の場合、書きっぱなしで推敲という事をしていないので、或る意味では無責任である。
それでも自分の思っている事を、どのように文章で表現するのかという点で、やっていて結構面白い。
大小説家とは違って、文章を書く事を職業としている訳ではないので、実に気楽である。
この冊子も書いた後で間違っていた事に気が付くことが多々有るが、文全体を書き直す事は面倒なので、間違った事はそのまま残し、後の文章でその間違の事を記述して、改めて訂正するという方法を取っている。
それに付けても、あまりにも世の中の変わり方が早いので、文章の方がついていけない。
まさに激動の時代である。
ソ連のク−デタ−が起きたら、3日で失敗と云うような事がどうして予測できよう。
海部総理大臣が「重大な決意」というので、これは解散かと思ったら、そうではなく、自民党の総裁選という事になってしまった。
3人の総裁選候補の中で、一番説得力もなく、ポリシ−もないと思われる宮沢喜一が一番人気があるなどと、全く世の中信じられない事ばかりである。
(1991年平成3年10月27日宮沢喜一総裁選で勝利した。)
世の中は統治するものと、統治されるものとの二極対立である。
その、どちらに原因があるか分からないが、とにかく一寸先は闇だという昔の諺の通りである。
けれども、世の中の評論家というものは実に気楽なものだ。
私の評論家遊びもそれと同じ類であるが、私の場合、人の悪口を云うというのは一種のストレスの解消法である。
評論というのは責任がない。
人のやっている事にけちを付けて銭になるという事は実に結構な商売である。
世の中を啓蒙しているようでいて、その責任を負っているわけはない。
そういう気分に浸っているだけである。
立花隆という評論家がいる。田中角栄を徹底的に追求した人物であるが、彼の評論を読んでみると実にいい気なものである。
又、かって小田実という評論家もいた。
ベ平連のメンバ−であったが、今のソ連の崩壊というものをどう見ているのだろうか?
ベトナム戦争華やかな時代には大声でアジっていたが、この所さっぱり名前が出てこない。評論というものはあまり極端に論じると後で引っ込みがつかなくなるもののようだ。
読む方も読みづらい、やはり物事には程々というものがある。極端はいけない。
程度というものを考えないことには見苦しい。
その点、私の評論というのは遊びの精神である。
無責任な面は始めから承知の上で、世の中を変えようとも思わず、人々を啓蒙しようなどとは露とも思わず、ただただ自分のストレス解消のみである。