ソ連の政変
(1991年平成3年)8月19日昼間、家族で外出をしていて、夕方、帰宅してくつろいでいたら、妻が「今日何か大きな事件があったらしいよ!」というので、急いでテレビを付けてみたら、「ゴルバチョフ大統領失脚!」というニュ−スが流れていた。
その時の画面は、ヤナ−エフ大統領代行が「ゴルバチョフは健康上の理由で執務が出来なくなった。」という事を述べていた。
事件が経過して後から分かったことであるが、この第1報を1番最初に察知したのは日本では皮肉にも、証券不祥事に名を連ねている日興証券のデイ−リングであったようだ。
こうしたことは時間の経過と共に池の水の波紋のように広がっていくので、誰が一番ニュ−スの取得が早いかということはさほど問題ではないが、時間の経過と共に日本政府も知ることになったに違いない。
ク−デタ−そのものの流れは19日以降TV、新聞が事細かに報道しているので、私が論評を差し挟む必要はないが、以前にも述べたとおり、日本政府としてはゴルバチョフがどういう形で政界を去るのかということは考えておく必要は有ると思う。
これが私の言う戦略的対外政策というもので、ゴルバチョフの人気というのはソ連以外の、旧西側陣営諸国では人気が高いけれども、ソ連国内では今一つパットしていなかった。
ゴルバチョフの活躍は今年に入ってからでも目覚ましいものがあった。
ロンドン・サミットへの出席や、ブッシュ大統領との会談などを含めて、旧西側陣営とのパ−トナ−・シップの向上には大いに貢献している。
けれどもソ連国内における彼の地位というものは、西側陣営におけるほど評価されていなかった。
そういう時に日本は金融支援というのを渋って、余りいい顔を示さなかったことは結果的には良かったと思う。
それにもましてゴルバチョフ亡き後はどうなるかという展望も考慮しておく必要はある。
1991年8月26日、現在においてゴルバチョフは共産党の解散を命じ、共産主義社会の本家本元で、共産主義の一党独裁が消滅してしまった。
その上、各共和国はこの機会に一挙に独立へと向かい、ロシヤ共和国のエリツインはそれを全部承認してしまっている。
こういう、混迷の時代に先を読むことは誠に難しいことであるが、それは私一人が難しいのではなく、世界中が同じように難しいと思っているわけである。
だから日本政府としても難しいのは承知の上で対ソ支援、いや既に対ロというか日露というのか、旧ソ連邦に対する対策というものは考慮に入れるべきである。
日本の場合、すべからく、北方4島の返還を最優先にすべきだと思う。
ロシヤ共和国のエリツインというのは北方4島の返還には消極的だったというように記憶しているが、先のG7のメンバ−が目下、対ソ支援をしなければと、積極的になっているけれども、日本の立場としては北方4島の問題が片付くまでは、一歩も動かないという態度でもいいと思う。
この北方4島の問題は前にも述べたようにそう簡単には解決できるものではないはずである。けれども日本にとっては北方4島の問題を切札にして、逆にG7に働きかけ、この解決をG7のサイドからロシヤに仕向ける必要がある。
この北方4島の問題が解決した暁には金融支援も技術援助もいたしましょうという長期的な、かつ戦略的な対ロシヤ政策というものを考えておく必要があると思う。
G7の言いなりに金融支援を出すというのは得策でないと思う。
G7が金融支援を急務と考えるのは、旧ソ連からの難民の流出を恐れていることは前にも述べた通りであるが、日本は日本の立場というものを明確に確立しておく必要は有ると思う。G7内のパ−トナ−・シップというのは大事にしなければならないのは当然であるが、そのG7が金融支援するなら、G7側も日本の北方4島の解決に尽力するよう要請すべきである。それでこそ対等のパ−トナ−・シップというものである。
それにしても今、1991年、平成3年8月20日の時点でソ連は一体どうなっているのだろう。
共産党が解散して、各共和国が独立をしたということは、ソ連邦というものが全く消滅してしまった。
ということは、ロシヤとかウクライナとかリトアニア、エストニヤなどが一つ一つの独立国になってしまったということになれば、国連加盟ということもあり得るのだろうか?
別に国連に入って悪いということはなかろうが、完全な主権国家として認めることになるのだろうか?
今の時点でゴルバチョフソ連邦大統領の政治生命は2、3日から2、3ヵ月の運命といわれているが、現実にゴルバチョフが共産党の書記長を辞任し、共産党が解散して、各共和国が独立してしまえば、全く砂上の楼閣になってしまい、有名無実、その実態がないことになる。今回のク−デタ−の発端となったのが、1991年8月20日に締結されるはずの予定であった、新連邦条約に対して共産党保守派が反発したことにあるが、そもそもこの新連邦条約そのものがソ連邦を否定するものであったと思う。
それが下手なク−デタ−で一気に加速されてしまったと見ていいと思う。
共産党保守派というのは危機感に迫られて、逆に墓穴を掘ってしまったようなものである。
各共和国の心情
この新連邦条約というのも今となっては時代遅れになってしまった。
というのはこの新連邦条約というのは少なくとも独立した共和国、乃至はそう望んでいる共和国とまだ独立をしていない連邦というものの条約ではないかと思うが、今の時点では連邦内にとどまろうという共和国が無くなってしまった。
各共和国が全部連邦の束縛から逃れようとして、このク−デタ−の際に一気にそれを成し遂げてしまった。
後には何も残らないというのが現状ではないかと思うが、そういう意味で新連邦条約というのは実態がなしになってしまった。
今になってみると私はソ連の実態というものがよく分かっていなかった。
ソ連内におけるウクライナとかバルト3国というのは、私のイメ−ジではアメリカの州のようなもの、日本の県のようなものというように認識していた、そういうものを一纏にして、ソ連邦という巨大な国家というものが出来ているというように認識していた。
今、自分の認識が間違っていたのではないかと不安になっているが、案外その通りであったかもしれない。
と思いなおす様になったのは、ロシヤ共和国の独立という場合、アメリカのカリフオルニヤ州の独立という言い方をしてみれば、私の認識が間違っていなかったと思えてくる。
州という言葉と共和国という表現上の違いだったのかもしれない。
日本の場合に当てはめても
しかし、各共和国がソ連邦という束縛から逃れたいという心理は完全に共産党の政策の失敗である。
アメリカのカリフオルニヤ、日本の北海道がそれぞれの政治体制から逃れたいと思っているだろうか。
それぞれに政治への不満は持っているにしても、その主体から独立したいという気持ちは持っていないと思う。
一人や二人はそういう意見の人がいるかも知れないが、このように自分の祖国、母国を否定しようなどと思っている人はいないに違いない。
今、ソ連で起きている、連邦から独立したいという現象は、言葉では簡単に言うことが出来るが、深く考えればそんな生易しいことではない。
仮にカリフオルニヤ州がアメリカ合衆国から独立したい、または
つまり過去70年以上継続した共産党の一党独裁政治というものの反感で、人々がそういう気持ちになるのだと思う。
我々、民主主義の社会体制では、政治への不満というものを小出しに噴出させる安全弁というものがある。
その安全弁は何かといえば、公明正大な選挙制度である。
自分の気に入りの人間を選挙で選ぶことが出来るというということが安全弁になっている。中央レベルでも地方レベルでもそれが可能である。
けれども旧ソ連邦ではそれが出来なかった。
要するに自由の束縛である。
それを誰がやらしめていたのかといえば、これはソ連共産党である。
そこに今日のソ連邦の破綻の原因がある。
旧ソ連邦においては行政組織と党組織が完全にオ−バ−・ラップしている。
つい8月25日までのゴルバチョフの立場というのは大統領という行政の面と、共産党の書記長という面と、二つとも兼ねていたではないか。
もっともこの行政面の立場というものを作ったのはゴルバチョフ自身で、それまでは共産党一本であった。
組織が行政乃至は政治の組織と党の組織と二本立てになっていながら人間の方は両方とも共産党員が行なっている。
その屋台骨の共産党が堕落した以上、救いようが無い。
エリツインはロシヤ共和国の大統領になった時点で共産党を脱党している。
この2、3年でソ連の要人は次から次へと共産党を脱党している。
10年前なら脱党した要人なら生かされていない、すぐに暗殺されるのが通例である。
過去の共産党の歴史というものは密告、逮捕、処刑の連続である。
そういうことをしなくなった共産党というものは確かにある程度民主化され、民主化イコ−ル共産党の弱体ということである。
やはり共産党は密告、暗殺、テロをしない共産党は共産党でない。
それが今のソ連の共産党である。
エリツインの脱党を黙ってみている共産党は以前の冷酷無比な共産党とは異質の物となっている。
異質な共産党なるがゆえに、1991年8月25日、解散を命ぜられる事態になったわけである。
この共産党というのが各共和国を牛耳っていたが故に、各共和国はチャンスがあればソ連邦の枠より逃れたい、独立したいという願望を持ち続けていたわけである。
各共和国の独立したいという願望の中には、民族意識も大きなウエイトをしめていると思う。ソ連の場合、アメリカや日本と違って、土着の者を無理矢理ソ連邦の中に押し込めたという面があるので、行政面においても、共産主義で上から押さえ付けられていたが。その分民族意識というのはくすぶり続けていたと見ていい。
各共和国は大雑把に見て民族毎になっており、独立ということは民族自決という面からも、そういう願望は根強く息づいていたと思う。
マスコミはこの共産党の解散と各共和国の独立を歓迎の意をもって表しているが、私に言わせれば手放しで喜ぶべき物ではないと思う。
共産党の一党独裁を善とするものではないが、この事態はソ連邦内だけの事にとどまっていはいない。
金融支援で、金さえ出せば解決できる問題ではないと思う。
連邦弱体のデメリット
その第一は、各共和国の独立と民族自決は同意語である。
この民族自決が次から次へと問題を引き起こすと予測する。
このそれぞれに独立した共和国は、いづれ国境問題でトラブルを起こすと思うし、民族の問題として入った入られたというトラブルが持ちあがると予測する。
従来ならば共産党というものが干渉材となり、共産党という大きな枠で物事をとらえることが出来たが、各共和国がそれぞれに独立してしまうとなると、それこそ主権と主権の直接衝突ということになってトラブルの種が増えたことになる。
一連のク−デタ−騒ぎの中で、全てのマスコミが見落としていることに、軍縮の問題、核兵器の問題がある。
マスコミは8人組がどうのこうの、次の人事がどうの、と言っているが、この核兵器の存在を忘れている。
各共和国が独立した時、これがどうなるのかということに誰も言及していない。
過去のク−デタ−というのは、その大部分が軍事ク−デタ−である。
ク−デタ−を起こしたとしても、軍部は軍部として、一枚岩としてク−デタ−を起こす。
軍部が一枚岩となっていれば、軍の暴走ということもそれなりにセ−ブできる。
しかし、今回のように軍の中にク−デタ−派とそうでない派と分かれてしまうような状態の場合が一番核兵器の危ないケ−スである。
今回の場合でもゴルバチョフが常に所持すべき核兵器の暗号書が紛失したという小さな新聞記事があったが、これは大見出しで報道すべきである。
新聞社にそういう認識が欠けている証拠で、ソ連の政治面にのみ視点が向いている証拠である。
軍が保守派と改革推進派の二つに分裂してしまうような時は、一番核兵器にとって不安定な状態である。
そこにもってきて各共和国が独立するとなると、そこに配備されている核兵器というものは一体どうなるのだろうか?
現在、日本のマスコミはそこまで突っ込んで報道していない。
又、つい1年ぐらい前にはそれぞれの民族運動の展開の中で、各民族が独自に軍隊を作るという動きもあった。
これなどは昔の中国の馬賊に近いようなものといわなければならないが、元のソ連の正式軍隊を除隊した者が、各共和国の独自の軍隊を持つという動きもあるし、エリツインも各共和国が独立した暁にはそれぞれ独自の軍隊を持つことを容認している。
こうなるとソ連の正式軍隊と各共和国の軍隊との関係は一体どうなるのか大きな疑問である。
過去のソ連邦の軍隊の組織がどうなっていたのかは知る由もないが、核兵器やICBMを所持していた事は確かである。
今年のス−パ−・サミットで合意された核兵器削減交渉・STARTはこのク−デタ−の失敗の後どうなるのかが一抹の不安である。
我々にとってはソ連サイドの核兵器のボタンを押す人が今まではソ連邦大統領一人であったものが、これからは15人になると理解すべきだと思う。
現実にはこんな単純なものではないだろうと思うが、少なくともボタン押す人の数が増加したことだけは確実である。
それだけ危険が増加したわけである。
ソ連の各共和国が独立をすることにより、ソ連邦というものが崩壊し、ボタンを押す人が居なくなったということになれば結構なことであるが、又、各共和国の方もエリツインも核兵器をどうするのかということは一言も言っていない。
だが核兵器やICBMがそれぞれのサイロに温存され続けていることに変わりはない。
そのことは何故かマスコミは言及しなくて、表面の現象ばかり追っ掛けている。
裏切りと背信
ゴルバチョフが1985年3月11日、書記長に就任して、その後提唱されたペレストロイカの成果というのも、結果的には立派な業績だったと思う。
ペレストロイカとグラスノスチの二つの方針というものが、東西冷戦を終焉させたということは誰もが認めざるをえない。
これによりソ連邦の人々及び旧東欧諸国の人々は民主化の恩典に浴することが出来、自由化の方向に向かうことが出来た。
ノ−ベル平和賞も当然なことである。
けれども、ゴルバチョフがペレストロイカとグラスノスチの二つの種を播いて、それを刈り取ったのはどうもエリツインの方になりそうである。
今回のク−デタ−騒ぎでも、点数を稼いだのはどう見ても、又、誰の目から見てもエリツインの方である。
この二人の確執というものは以前から存続していたわけであるが、ペレストロイカを進めなければという根本のところではこの両者は同じである。
ただエリツインはもっと早急に推し進めるべきだという方針に対し、ゴルバチョフの方は少し慎重に構えて、保守派の意見もききながらという立場であり、又、共産党という党の立場、いわば共産党というものにこだわりを持っていたという違いがある。
だから急進派のエリツインは早々と共産党を脱党してしまった。
ゴルバチョフは自ら共産党の解散をしなければならない立場になってしまったわけである。
今回のク−デタ−騒ぎではゴルバチョフ自身も、ク−デタ−を起こした側近を自分が選出したというミスを認めているが、こういう裏切りというのは我々、日本人レベルではどうも信じられないというか、自分を引き上げてくれたトップを裏切るということは、どうも我々の神経ではついていけない。
海部総理大臣が現在の閣僚からボイコットされたようなものである。
海部総理大臣を中山外務大臣や橋本大蔵大臣が幽閉するという状況を想像しえるだろうか?我々では想像だに出来ない。
しかし、ソ連で起きたク−デタ−というのはこういうことである。
政治を語る前に人間として考えるべきことで、これはソ連ばかりでなく全てのク−デタ−がそうであるが、ク−デタ−ということはこういう事である。
不思議なことにこのク−デタ−を予測していた人がいる。
それは保守派のグル−プ、ソユ−ズのアルニスミス大佐などは、既にこの事態の来る事を予測していた。
こういう先見性のある意見というのはなかなか見抜く事が困難である。
困難であるから出来なかったということにはならない。
日本政府というのは、こういう事態も当然予測しておくべきである。
このク−デタ−が失敗に終わって、又、ゴルバチョフが復帰したので当面は大きな対ソ支援の変更は、検討する必要は有ろうが今すぐ大きく変える必要はない。
けれども、ク−デタ−がそのまま成功りに終わってしまった場合、対ソ支援というものは大きく変更せざるをえない。
そのためには新聞の大見出しを読んでいるだけではいけない。
新聞の小さな記事、テレビの何気ないシ−ンの中にこのような大事なシ−ンが隠されている。このク−デタ−でエリツインが点数を稼いだのは確かである。
ゴルバチョフはまだ大統領でいるとは言うもののその影響力というものは低下した事は否めない。
自分でも認めているようにク−デタ−の首謀者を自分で選出したということは結果的に致命傷となっている。
自分を支持しない者を、自分で選出したということは政治的に完全な失敗である。
ク−デタ−は失敗に終わったというものの、ゴルバチョフの命運も残り少ないというべきであろう。
ソ連が共産主義国になって約75年間、この間でソ連の政治的背景というものは血塗られたシ−ンばかりである。
今回のク−デタ−では流血が少なかったのが不思議なくらいである。
大体、共産主義というのは流血、乃至は暴力というものを肯定しているし、裏切り、背任というものはついて回っている。
ソ連邦成立の段階から流血がつきものであり、スタ−リンの政治というものは、アメリカ映画のアル・カポネと同じである。マフイアの政治である。
あれは我々のセンスでは政治とは言えない。
日本が過去にアジアで悪いことをしたと言われているが、スタ−リンなどは自国民をどれだけ粛正したか、その人数を比較すれば問題なくスタ−リンの方が人を沢山殺している。
それも共産党という組織的な暴力である。
目下、ソ連ではこの共産党というものが否定され、共産主義というものが否定されつつある。その時期が50年遅すぎたわけである。
党が一党独裁ということはマフイアが政治をしているようなものである。
対抗意見を聞き入れないということは民意を無視して、党のやりたい放題やるという事である。事実そうなっていた。それが今行き詰まり、否定されたわけである。
過去のソビエット共産党というものは党利党略で政治を行ない。国民というものを無視してきた。
それを今、ソビエット国民が弾劾しているわけである。
こうした状況になりえた裏には、工業というよりもマスコミの発達がその根底にあると思う。
ラジオ、テレビの発達ということで、ソ連国民が世の中の事を、外国の事を知るようになるにともない、ソ連国民が政治に目覚めたと見るべきである。
けれども、やはり私個人としてはソ連というべきか、ロシヤというべきか、この国民の裏切りと背信をする精神構造、流血をいとわない精神構造というものは是正できず、又、同じ事が起きるような気がする。
今度起きるのは暗殺だと思う。
ク−デタ−の予知
新聞報道によるとゴルバチョフ大統領は26日、ソ連臨時最高会議において、演説を行なったが、その冒頭の部分は面白い示唆を含んでいる。
まず、ク−デタ−を予知していたということを認めている。
やはり本人自身うすうすは気が付いていたということである。
これを穿った見方をするとゴルバチョフがク−デタ−を誘い込んだという見方が出来るのではないかと思う。
ゴルバチョフとエリツインの立場というのは、その背景となっている基盤が根本的に違っている。
エリツインというのはロシヤ共和国という、お山の大将でいればよかったが、ゴルバチョフの方は15の共和国を取り纏めなければならない、
そのためには従来から引き続いている共産党の保守派との協調もせざるをえない。
党の組織というものを頭から否定することも出来ない、よってその派閥から人材を閣僚に登用せざるを得ず、その結果がク−デタ−ということになった。
ク−デタ−を引き起こすことにより保守派を一気に潰す事が出来たわけである。
ク−デタ−の前ならば保守派の意見も聞かなければならないが、ク−デタ−の後ならばそれを口実に保守派というものを一気に黙らせることが出来る。
閣僚も一気にすげ変えることが出来る。このク−デタ−は仕組まれたものではないか?
この演説の中でもゴルバチョフ自身が述べているように、ペレストロイカでも生活の向上は出来なかったということは、共産党の政策が間違っていたことも大きな原因であるが、その前にロシヤ人そのものの気質ではないかと思う。
これは前にも述べたことであるが、ロシヤという土壌は所謂、農奴の国である。
その大半は現代においては労働者になっているかもしれないが、その農奴の根性というものが抜けきれないのではないかと思っている。
これは一番下の階層ばかりでなく、社会の各階層の中でこの農奴の根性が根付いているのではないかと思う。
私の言う農奴の根性というのは一言で言えば、言われた事しかしないという行動パタ−ンの事を指している。
この行動パタ−ンは何もソ連ばかりでなく世界各地のあらゆる民族がそうである。
ただし、日本のみは例外である。
日本人は言われる事を予測して言われる前に行動する。
しかし、他の民族の大半は言われた事のみをすればそれで責任は果たしたという発想である。それ以上行動することは損だと思っている。
この言われたこと以外しないという発想が社会全体を沈静化しているのではないかと思う。前にも述べたが、昨年あたり農作物は豊作だったと聞く、それが十分都市に行き渡らず、途中で腐っているという報道もあったが、これは各階層で言われた事しかしないという発想が、そうさせていると思う。
他の人が困っているので機転を聞かせてそれをカバ−するという発想が無い。
だから指令が間違えば間違いっぱなしで、誰一人この指令が間違ってるということを指摘しないので、途中の流通機構が十分機能しないのではないかと思う。
以前、テレビのシ−ンで見た事であるが、ゴルバチョフが工場視察に出掛けると、工場長というのが計画と実績の数字だけを並べて説明しており、そこでゴルバチョフが「実際はどうなのか?」という質問をしていた。
まさにあれがソ連の実際の姿だろうと思う。
計画の数字と、実績の数字、これが両方とも虚偽のものだとしたら実体はどうなのかということはゴルバチョフ自身知っている。
それがためのペレストロイカであったろうと思う。
このペレストロイカで一番損をするのは誰かというと、それは共産党官僚である。
計画も杜撰、実績も杜撰、それで経済全体が低迷を続けている。
私の個人的な感覚ではゴルバチョフ自身はク−デタ−までは共産党に愛着を持っていたと思う。
8月26日の演説で自分でも述べているが、スタ−リン的な組織を、民主的な組織に変えようとしていたことを述懐している。
これは組織というのを人と置き換えてもいいと思う。
要するに共産党の組織そのものが腐敗していたので、それを是正するのがペレストロイカであったわけである。
その改革をしたいと思っている矢先にエリツインは早くやれ、早くやれと言うし、ゴルバチョフの領袖は離れていくし、一気には出来ないので保守派の人間を使おうとすればク−デタ−である。
ゴルバチョフもなかなか大変である。
この時の演説では新連邦条約締結後は円満に引退するニュアンスがあったが果たしてそれがうまくいくかどうかは疑問である。
個人的な感情としてはゴルバチョフが円満に政治の舞台から引退させてやりたいと思う。
彼の功績というのは実に偉大なものがある。
ソ連開放の直接の当事者であり、東欧の開放、ベルリンの壁の崩壊、ひいてはドイツの統一、東西冷戦の終焉など数え上げれば限りが無い。
しかし、ソ連という巨大大国が消滅したとなると今後世界情勢はどうなるのだろう。
アメリカも対抗馬が無くなってしまったら張り合いが無くなるのではないか。
ここに、以前は経済難民、ソ連からの難民の問題が危惧されていたが、今後、ソ連の崩壊ということになるとこの問題はどうなるのであろうか?
各共和国がそれぞれ自主権を持って独立し、自由は保障されている、その反面共産党というのは各共和国で否定されているので、共産党の圧迫や弾圧を恐れての亡命ということはありえない。
有るとすれば経済の混乱による経済難民である。
ゴルバチョフが推し進めようとする新連邦条約というのは、こうした事態を少しでも防ごうと配慮している点は認めるが、果たしてそれが出来るかどうかは又別の問題である。
各共和国が自主権を持つということは、ある程度我儘を認めるということで、そこに今までの共産党という強いきづなというものが無くなった今となっては、我の張り合いにならなければいいが、各共和国同志が協力し合って、少なくとも以前のソ連邦の中だけでも仲良くやってくれれば問題ないが、中には訳の分からぬ事を言いだす国が現れてこないとも限らない。昔も今もこの地域からは目が離せない。
サッチャ−讃歌
最近のテレビの深夜放送はなかなか素晴らしい番組がある。
素晴らしいと云う意味は、私の個人的な趣向に合っていると云う意味で、まあ独善的なものであるかも知れないが、少なくとも民間放送としては骨の有る番組である。
8月18日の深夜、田原総一郎の「世界が見たい!」というのと、やはり田原総一郎が司会をしていた「サッチャ−女史熱弁、新地球時代」と云う二本の番組は民間放送としては珍しく、筋の通った番組であった。
民放とNHKを比較すると、司会でも、その他出演者でも、人に語るということに対して、決定的な差異がある。
民間テレビの出演者というのは言葉を語って、自分の意志を相手に理解せたいという態度が全く見受けられない。
自分一人が楽しんでしまって、一人よがりである。
視聴者を無視している。
そういう意味で田原総一郎も、テレビの司会者としてはNHKに較べれば劣る。
それが彼のキャラクタ−と思って見る以外に視聴者としては方法がないが、彼の司会というものはNHKのアナウンサ−に較べると稚拙である。
その分気楽にやっている風に見受けられる。
NHKの方はどうしても堅苦しいというイメ−ジが抜けきれないが、個人的にはNHKの方が好感が持てる。
さて、深夜の討論番組の方は実に内容が濃いもので、司会者の不手際を吹き飛ばすに十分な内容であった。
その中でもサッチャ−女史の発言は実にユ−モアとウイットに富み、含蓄に富んでいる。
この番組では宮沢喜一とサッチャ−が並んで出演していたが、サッチャ−の考えていることは日本人が本当に見なおすべきことばかりである。
サッチャ−が信念を持って発言して憚らないのに、宮沢喜一の方は信念そのものが固まっていない。
全く無いわけでもないだろうが、状況に合わせて使い分けようという態度が感じられる。
これが「日本の不透明さ」と云われる所以だろうが、自分の信念を、時と状況に合わせて使い分けておれば、外から見た場合、日和見ととられても仕方がない。
この討論を見ていて、サッチャ−が代表するように西洋人と日本人では、やはり相容れない精神構造の違いというものが如実に現われていた。
日本人の視聴者及び出演者の中で、何人がこの違いに気付いたか分からないが、明らかにサッチャ−の潜在意識と、日本人の大多数の持つている潜在意識には違いがある。
それは物事にぶつかった時の対処の仕方である。
もっと根源的に云えば、戦うという事の認識である。
サッチャ−が代表する西洋人というべきか、キリスト教文化圏の潜在意識の中には「善と悪」「正義とそうでない物」という二極分化した価値観があって、「正義を守る」「不正を正す」「善を維持する」という事に対しては、武器を持って戦う、この戦いには武器の使用も辞さない、この戦いの為には武器の使用も容認されるという認識が、潜在的に存在する。
だから武器を使う使わないということよりも、其の事が「正義か、悪か」、が先に問題にされる。
だから正義かそうでないかが重要なポイントになる。
けれども日本人の大部分は、宮沢喜一を含む、他の日本人出演者及び日本人の知識人の大部分というものは、正義だろうと、悪であろうと、善であろうと、とにかく武器を使うことは駄目だという固定観念に陥っている。
とにかく正義とか、善とか、悪とは関係なく、武器を使うこと自体が駄目だという認識である。
サッチャ−に代表されるキリスト教文化圏においては、状況に合わせて身を守る為には、武器の使用というのは是認されているという認識であるのに対して、我々、大和民族は状況の如何に関わらず、武器の使用そのものが駄目だという認識である。
この我々、日本人の認識というものは、やはり日本人の特異性だと思う。
キリスト教以外の宗教、マホメット教などでも、武器の使用という事に対しては、キリスト教に近い考え方で、宗教を抜きにして語った場合でも、やはり自己の生命を維持するには、武器の使用は当然であるという認識の方が普遍的だと思う。
戦後の日本人のように、あらゆる状況においても武器の使用を否定するというのは少数派というよりも、日本人以外にいないのではないかと思う。
これは好戦的という意味ではない。
自己防衛に対する考え方であって、サッチャ−女史が好戦的という意味ではない。
自己防衛という言葉は、個人にとっての自己防衛であるが、これが集まれば民族としての意志、国家としての意志となってくる。
ここに国家としての防衛、国を守るという意識の違いとなってくる。
サッチャ−はシ−・レ−ンの防衛は日本にとって当然であると明快に述べている。
日本の憲法は変える必要はないと明確に述べている。
戦後の日本の知識人は憲法の解釈で細かい事を述べ立てているが、サッチャ−女史は生きる、生存する、日本人の生存という大きな観点に立って、明快にシ−・レ−ンの防衛は必要であると答えている。こういう単純明快な論理はどうも宮沢喜一もついていけないようだ。
湾岸戦争についても日本は金だけ出して兵隊を一人も出さなかったことに対して、あれはあれで結構なことであると明確に答えている。
日本の憲法は守られるべきであるので、あの場合は金だけ出しておけば、十分貢献した事になると。単純明快な論理である。
ただここでもサッチャ−女史と日本人サイドには認識のずれがある。
というのはあの時、多国籍軍の行為というのは国連の決議、国連で採択された決議の実施であるという認識をサッチャ−が示したのに対し、日本人サイドは単純にアメリカの武力行使と決めてかかっている。
日本は国連中心主義と云いながら、国連の採択に無関心と云うよりも無視、国連がどういう決議をしたのか関心を払おうとしない。
アメリカ軍と国連との見分けがついていない。
日本政府は国連の決議を認識していたが、日本の知識人といわれる人々は故意に無視していた。
そこにサッチャ−の認識と日本人の間に認識のずれがある。
サッチャ−の認識に立てば、あのサダム・フセインがクエ−トに進攻したことは、他国を武力侵略した行為で、許せない、その許せないということを、国連が認め、国連がイラクに対する対抗手段として武力行使を認めた以上、それは正義の戦争であると云うよりも国連決議の施行である。
それにはイギリス軍も大いに協力すべきであるということで、イギリスはアメリカとともに参戦した、という認識である。
ここにサッチャ−女史の正義の戦争ならば武力行使は許されるという潜在意識が現われている。
けれどもその認識は、国連決議という大義名分がある以上、武力行使は当然であるという考え方である。
ところが日本人の方は、国連というものを抜きにして、ただ単純に武力行使、戦争であるという認識である。
戦争である以上、事の因果関係も、善悪も関係なく、武力行使は駄目であるという認識に立っている。
日本の国連中心主義は何処に行ってしまったかと云わなければならない。
そういう態度を取りながら、海外の批評を気にしている。
要するに信念がない。
のらりくらりとしておきながら自分自身の意志を外に向かってPRする事が下手である。
この海外の批評を気にするという点も、日本人の特異性の一つであると思う。
こういう事は我々の日常生活の中にも色々と垣間見ることがある。
ソ連の行く末を案ずる件
この番組を見ていても、サッチャ−女史は自分の論理を明確に述べているのに対し、宮沢喜一はやはり、日本人の言葉で表現すれば、老獪という言葉がぴったりする。
日本人の政治家ではこの老獪という言葉が一番の誉め言葉のようであるが、これは突き詰めて云えば、のらりくらりと掴み所がないと云う事であり、国際的に場では一番嫌われる態度ではないかと思う。
何を云っているのか訳が分からないうちに事態がどんどん進んでいくというのが、日本人のやり方であり、又、国際社会から一番警戒されるポイントであろうと思う。
湾岸戦争の日本の対応なんてものは、サッチャ−から見れば歯痒いくてしょうがないのではないかと思う。
けれども、公開の場で言うべき事ではないと、控えているのではないかと思う。
サッチャ−としても日本の経済成長と、そのノウハウは不思議でしょうがないと思っているに違いない。
けれども、現実のパワ−は認めざるをえず、日本を煽て上げているが、やはり、潜在的な意識の中では、日本の知識人とは一種、相入れないものがある。
サッチャ−と宮沢喜一では同列に論ずることが出来ない。
宮沢が役不足である。
日本の政治家の中では国際通かもしれないが、国際的な政治家ではありえない。
あくまで、日本の政治家の中ではという枠の中での話である。
あの意見を要求されて、自分の質問にすり替えたりして、論点をはぐらかしたりする所はまさに老獪の一言である。
この場合はソ連の問題の時に見られたが、宮沢喜一は自分の考えというものを持っていない。信念、ポリシ−というものが出来上がっていないという事である。
宮沢喜一が今、ソ連で起こっている激動の行き着く先というものが見えていない。
これは海部総理も同じだと思うが、詰まる所、日本政府としても先行きが分からないという事である。
その点では宮沢も海部も同じということである。我々国民も同じである。
けれども、サッチャ−女史の考えは、先行きの分からないことでは同じだとしても、その過程で支援しなければならないという点がポイントである。
このソ連というものに対する見方というものも、昔も今も、日本とイギリスでは随分、認識の差がある。
これからはソ連というべきか、ロシヤというべきか分からないが、ソ連が分解してしまっては困るというのがサッチャ−女史の考え方であるが、その点では私個人としても同感である。今迄、ソ連と交わしてきた約束を、何処が履行してくれるのかという点で、サッッチャ−の言っていることは私は正しいと思う。
けれども、日本サイドの出演者はその点を無視している。
日本人というのは自分の都合の悪いことは故意に無視するという面がある。
これも老獪と呼ばれるものであるが、その点サッチャ−は今迄、ソ連が連邦として約束してきたことの、約束の履行を迫るという、契約社会の先輩としての気配りというか、そういう視点を見逃していない。
日本人は激動の表面だけに気を取られているが、サッチャ−にしてみれば旧西側諸国が旧ソ連邦と取り交した約束の履行がどうなるのか、という方が心配であるという風に見えた。
そのためにはソ連邦というものが分解してしまって、15の独立国になってしった暁には、その約束の履行を何処がしてくれるのかという心配も最もな事だと思う。
宮沢喜一を始めとするサイドは、激動の流れが行き着くところまで行って、それを見届けからと云う感じであるが、サッチャ−はその過程も含めて、旧連邦との約束の主体がどうなるのかという点にポイントを置いている。
私の個人的な意見としては、サッチャ−の心配は尤もであるが、ソ連以外の国がソ連を支援してやろうとしても、やはりソ連の激動の流れの行き着く先が定まらない事には、手の出しようがないと、日本人全体の意識と同じである。
多分、ソ連邦の中ではロシヤ共和国が一番大きいので、ロシヤ共和国があらゆる面で、矢面になってくるだろうとは想像するが、すでに北方領土問題でもロシヤが窓口であるということを、ロシヤ側が言っているし、核兵器の問題でもロシヤに集めて集中管理をするという動きが出ている。
8月18日、この深夜番組が放送された同じ日に、バルト3国は独立をしたが、このバルト3国というのはソ連邦全体から見れば小さな部分である。
独立後においてもあらゆる面でロシヤに依存せざるをえないと思う。
ここで、考えられることは、旧のソ連邦がECのような経済統合体になるのかどうかという点であるが、サッチャ−の考えはどうもロシヤは君臨するのではないかという感じである。宮沢喜一はソ連がECのようなブロックを形成するのかと云うことを逆にサッチャ−に質問していたが、答えとしてはそういう物の見方にはなっていなかった。
要するに、どういう形になるのか誰にも分からないということである。
これは誰が考えても同じだろうと思う。
日本人の国際認識
この番組の中に外国のジャパッ・パッシングの問題が討論されていた。
それでこの問題をサッチャ−にぶつけてみたら、サッチャ−は日本をべた誉めであって、拍子抜けの感じであった。
けれども、日本の閉鎖性についてはチクリと一矢を報いていた。
日本は確かに人の云うことを気にしすぎるきらいがある。
やはり、これは国民性というものであろう。
国民性ということになれば、それは特異性というものにつながってくる。
その最大のポイントは今述べた老獪という表現であろうと思う。
経済発展の結果としては高度経済成長をし、日本製品が世界に出回っていることは認めざるをえないが、その過程において、日本人の意志決定ということになると、のらりくらりと、老獪の一語に尽きる。
どれが本音で何処が外交辞令か解らない。気安く約束していくが、実行はともなわない。
こういった面が世界中から奇異な目で見られているという事ではないかと思う。
この外交という点について云うと、外交官でもない人が、海外に出掛けていって、向こうの政府の人と無闇矢鱈と面会するから、こういう事態が起きてくると思う。
自民党の代表として先方にいって、先方の政府の要人と会う。
先方にしてみれば、かってのソ連のように一党独裁の国もあったので、党の代表が約束してくれたことなら実行してくれると思って待っている。
帰ってくれば約束した本人でも忘れてしまっていると、いうようなものである。
外交辞令として前向きに検討するという、便利な表現である。
我々、日本人なら「あれは実行出来ない」という事だと直感出来るが、日本の習慣に疎い外国人はそれを文字通り正直に受けとめている。
すると、日本は約束を守らないという評価になってしまう。
こういう紛らわしい表現でもって老獪に泳ぎ回るのが、日本の政治家としては手腕とされている。
これはやはり日本独特の文化であると思う。
この日本文化は外国人には理解しにくい面であろうとは思うが、日本人がこの文化に浸っている間は、外国人から見て、日本人の不可解さは理解できないと思う。
9月9日のテレビの放送によると、日本の政党、各党間においてPKO活動について合意が成立したと報じていたが、その中の停戦監視団においては、停戦が崩れた場合、引き上げるという条項を成文化するということである。
これも馬鹿げた話である。
停戦が崩れて本格戦争になれば引き上げざるを得ないのは当然である。
これは証券スキャンダルで損失補填はしてはならないという条文を作るのと同じで、わざわざ明文化しなければならないというところに、日本人の認識の甘さというか、擦れがある。又、停戦監視団を監視隊にするとか、実にくだらない論議である。
ここで忘れてはならない事は、PKOというのは国連の要請により行動するということである。
国連の行なうことなら何でも正しいとするのは論理の飛躍であるが、世界の複数の国家の合意があるという意味は、絶対正義により近い決議、決定であろうと思う。
国連のやっていることなら何でも正しいとすることは少し飛躍のしすぎであると思うが、その決議にどれだけが賛成して、どれだけが反対したかということで、その正義の比重というものは計られると思う。
日本は国連中心主義で行こうとしている以上、国連には憲法の枠を越えても参加すべきであるし、もしそれが出来なければ、はっきりとその理由を世界に向けてアピ−ルすべきである。スイスは小さな国であるけれども、国連には加入していないと記憶している。
これはこれで立派なことである。
国連に加入せず侵略戦争は決してしないということを世界に向けてアピ−ルしており、国連への加入はしないが、恩典にも浴さないと云うはっきりした自己主張のうえに、国連に加入していない。
だだし、自衛力は常に時代に合わせて整備している。
日本は海洋国家であり、貿易立国なるが故にサッチャ−はシ−・レ−ンは自分で守りなさいといっているのである。
この意味を日本人は理解しようとしていない。
シ−・レ−ンが切断されても、アメリカがやってきてくれると思っている。
日本人は、日本国家の安全は空気や水と同じように、ただだと思い込んでいる。
その影にはアメリカの国防費というのが湯水の如く使われていることに気が付いていない。日本人の目に見えているアメリカというのは、ジィエット機の騒音ぐらいしかない。
アメリカ海軍の「ミッドウエイ」も「インデイペンデンス」もテレビで見るぐらいしかない。
世界各地で今も戦闘地域があることを忘れている。
日本では平和ぼけですんでいるが、地球上では今も戦闘状態になっている地域が残っていることを忘れている。
国連という機関が地球上の諸問題を解決しなければならないと、一生懸命になっているときに、日本は自国の繁栄のみを願っている。
PKOは憲法があるので、協力できないでは済まされない。
やはり出来るところからやるべきである。
前にも述べたが、金で済ませることが出来れば、どんどん金を出すべきである。
証券業界や銀行は金を玩具としてもてあそんでいるぐらいである。
ああいう金もどんどん国連を通じてODAなり、無償援助として出すべきである。
これは日本としてやれることから実施するという話になった場合、金を出すことが一番てっとり早いし、相手も喜ぶ事である。
サッチャ−の話を聞き、顔を見ていると、どういうものかイギリス帝国、大ブリテンの風格が読み取れる。
やはり、腐ってもタイという風格がにじみでている。
昔も今も変わらないという民族の歴史が感じられる。
ところが、我々日本人というのは、非常に大きく変化をしている。
やはり、日本人というのは昔からの金持ちでなく、成金趣味の域を出ていない。
真からの大尽ではない。
金の本当の使い方を知らないというか、人と人との付き合い方でも、本当の交際というものを知らない。
何となく、言葉では言い表わせない、妙なちぐはぐがついて回っている。