証券不祥事

 

1991年平成3年8月の月末になって国会では証券不祥事にまつわる国会喚問が始まっていた。

世界ではゴルバチョフ失脚のニュ−スが地球上を駆け巡ったが、この8月という月は内外に大きな事件で揺れ動いた。

暑い夏であった。

ゴルバチョフ、及びソ連の共産党の崩壊については言うまでもなく、世界に与える影響というものははかり知れないが、日本の証券不祥事という問題も由々しき問題である。

法の枠の外のことで、具体的に取り締まる方法もないというところが問題である。

その後、色々な話がマスコミから流れてきているが、世界的に見て、株の取引において、証券会社が損をした相手の損失を補填するなどという事がありえること自体が例が無いことである。

日本においても本来は有るべき姿ではない。

法律にないという事は、そんなことがあり得ること自体想定していなかったということである。いわば常識の枠の外の事である。通常の常識ではありえないことである。

だから法律にもそれを取り締まる条項がないのである。

我々の身近な例に取れば、車の運転をするときに、飲酒運転というのがある。

車を運転する時に酒を飲んで運転する不逞の輩が沢山いるので、飲酒運転をすることは法律で禁じられ、罰則も存在する。

ところが、蒸気機関車や電気機関車や飛行機、地下鉄の運転手が酒を飲んだまま乗務していいのか悪いのか、それを罰する規則があるのかないのか定かには知らないが、常識的には酒を飲んだ状態で乗務をしてはいけないだろうと思う。

これと同じ事で、本来の職務上では当然許されるべきことでないのに、法規が無い、法律に定めていないという、安易な考えで、ただライバルとの競争、目先の利益のみで、常識の枠からはみ出した行為を行なったというところに、証券業界のモラルの低下がある。

これは業界のモラル、理念の低下という以外、言いようが無い。

いけないことは誰にでもわかっていそうなものである。

しかし、今日こういう問題が起きてみると、株の投資で損をした人に、その損失を補填することは本当にいけないことだったのだろうか?

皮肉な逆説的な物の考え方をしてみれば、自分で儲けた金を、誰にばらまこうが勝手という心理があったのではないかと思う。

常識的に考えれば儲けた金を意味もなく人に振る舞う人はいないという意味では、法律的にわざわざ規定されていないと思うが、我々の今までの常識では儲けた金を取引で損をした相手に補填してやるというばかげた行為は考えられなかったが、これを逆の視点から眺めてみれば、自分で儲けた金だからどう使おうと勝手だという理屈にもなるわけである。

問題はこれが1個人のレベルまで万遍なく行なわれればトラブルは無いわけであるが、補填を受けた企業と、そうでない一般投資家がいたところに問題があるわけである。

一般投資家はもっともっと怒らなければいけない。

証券不祥事にしろ、銀行の不正融資の問題にしろ、経済界のトップの人々はモラルを喪失している。

ただただ、我が身、我が社の安泰を願うのみで、経済活動を通じて国民に奉仕すべきであるというモラル、理念を失っている。

証券会社にしろ、銀行にしろ、本来の業務を忠実に行なっていれば、社業を通じて社会に対して奉仕する事になるが、その本来の業務を見失って、本来の業務から逸脱したことにより、こういう不手際な事態を引き起こす結果となるわけである。

国会の喚問でも他行との競争、自社内の支店間の競争の結果、こういう事態を引き起こしていることが指摘されている。  

 

               金余り現象

 

要するに経済界全体が競争することにのみ専念しすぎて、本来の目的を見失う事になった。今年に入ってバブル経済が崩壊したといわれている。

その前にバブル経済というものが4、5年続いたと見ていい。

このバブル経済というのは地価高騰による、土地買い占め、土地投機、地上げ屋の横行、という一連の現象を指しているが、そもそもこの土地投機や絵画の投機が何故起きたかということから探らなければならない。

この現象の引き金は世間ではプラザ合意による金利の引下だとしているが、私はそれよりも前にさかのぼって、いわゆるニクソン・ショックといわれるドルの金との交換制を廃止したことによることが原因であると思う。

それまで1ドルが360円だったものが、あれ以来1ドルが135円程度まで下がったというべきか、上がったというべきか、この事により日本国内において金がだぶついてきたことによると思う。

その根はかなり深いところにあると見なければいけない。

1ドルが135円になると国内においてもさまざまな軋轢が出たことは歴史が証明しており、オイル・ショック等も起こり、この何何ショックと言われるたびに日本経済は足腰を強めてきた。

日本の経済というのは試練を受けるたびに強くなるという不思議な力を持っている。

この強くなった力が国内では行き場がなくなってしまった。

だから土地投機や絵画の取り引に流れ、海外ではロックフェラー・ビルやコロンビヤ映画の買収という形になって現われていたわけである。

この一連の不祥事はマネ−・ゲ−ムと言われる、ゲ−ム感覚で行なわれているところが問題である。ゲ−ムならば遊びである。

食うか食われかの経済戦争ではなく、株屋さんゴッコである。

勝った負けたで、勝った方がチケットを返してやっても何ら不思議ではない。

この金の余った時期にマネ−・ゲ−ムをしていいるから、こうした不祥事が起きるのである。

それを防ぐ方法としては金が経済界に余らないようにすればいいわけである。

そんな方法があるかといえばこれは存在する。

けれども今の日本では多分出来ないのではないかと思う。

その方法というのは壮大な公共投資である。社会基盤の整備である。

この公共投資というのが今、日本で叫ばれている割りにはなかなか出来上がらない。

その原因は国民の側にある。

国民は公共投資を要求する割りには協力的でない。

証券不祥事が露呈しても、やれ制度を作り直すとか、モラルの向上を図るべきだとか、大蔵省が悪いだとか、責任転嫁もさることながら発想が小さく乏しい。

証券不祥事で補填された総額は何億か正確には知らないが、銀行の不正融資で何億の金が動いたか正確には知らないが、これだけの金を一纏にすれば相当大きな公共投資、社会基盤の整備が可能なはずである。

ところが、この公共投資や社会基盤の整備というのをしようと思うと必ず国民の側から反対運動が起きてくる。

全く不思議なことである。

日本の国会議員の大部分がこの二つを旗印にして選出されてくるにもかかわらず、いざ計画を実行の段階に移すと、国民的コンセンサスでもって反対運動が沸き上がってくる。

日本の国会議員は、こうした反対運動が起きた場合、その説得、この公共投資、社会基盤の整備はこういう理由により必要だ、という説得をすべきであるのに、それをしない。

もしそれをすれば次は選挙に出れないという、この日本の社会のシステムがいびつになっている。

だから道路一本作るにも反対、反対である。

これではいくら公共投資をしようとしても、いくら社会資本の充実を図ろうとしても行なえない。

公共投資、社会資本の充実が思うように出来ない、だから日本経済で国内に金がだぶついてきてもそれを吸収する方法が無い。 

昨年の日米構造協議でも日本はアメリカに対して430兆円の公共投資をすることを約束している。

こんなことをアメリカと約束すること自体、少し変な話であるが、日本の国民というのは公共投資や社会資本の整備をすることを望んでいない。

だから全てがミニ開発になってしまい、ミニ開発とミニ開発がひしめき合うのでますます混乱に輪がかかってしまうのである。

道路を作ろうと思えば環境破壊、ダムを作っても環境破壊、原子力発電は放射能の問題、空港を作ろうとすれば騒音の問題と、どんな公共投資も社会資本の整備も反対、反対という国民である。

そういう人達というのは昔のように囲炉裏でカンテラの生活でも望んでいるのだろうか。

この辺りの国民の知的レベルが日本全体の公共投資、社会資本の整備をするのにネックになっている。

なんのかんのといいながら、日本は経済成長率で世界No1である。

その国がうさぎ小屋から脱皮して、公営住宅を建てなおそうとしても反対である。

このアンバランスは経済界のトップの人ばかりでなく国民の一人一人に責任があると思う。そういう背景の中で、日本の国内に金が貯まりすぎてしまったわけで、その貯まった金で補填が行なわれ、不正融資が行なわれたわけである。

46年前、終戦の時には日本がこんな国になるとは思いもしなかった。

世界で1、2を争う金持ちの国になるとは想像も出来なかった。

以前、経済界のトップの人が言っていたが、金持ちになったら金持ちになったように振る舞わなければならないと、確かに衣食足って礼節を知ると云われているとおり、衣食が満ち足りたら、それにふさわしい行動というものが必要である。

その金持ちにふさわしい行動というのが、一番最初に公共投資の質の向上と、社会資本の整備が来るのではないかと思うが、これを国民が拒否するようでは、金の余った企業はマネ−・ゲ−ムでもして余った金を玩ぶことでもしなければならない。

国民というのは社会福祉なら喜んでもらうが、公共投資をしようとするとそれは不必要であると拒む。

社会全体としては必要な事は誰でも知っているが、それに直接利害が接触する人が反対を表明する。

それに段々尾鰭がついて来る。

支援という形で大きな大きな尾鰭がついてくる。

日本は民主主義の国である。

国民全体に益することであると分かっていても、それに反対する人や、支援を禁止させることは出来ない。

社会全体の利益よりも個人の利益の方が優先する社会である。

また、将来の大きな展望を考えることよりも、明日の糧を心配する事の方が大事であると、国民の全体が考えているようである。

これが経済界に如実に現われたのが今回の証券不祥事であり、銀行の不正融資である。

 

製造業の努力

 

ニクソン・ショックは日本の経済ばかりでなく、アメリカの経済にも大きな影を落としている。

例の、貿易の赤字と債券の赤字の双子の赤字と言われる問題である。

貿易の赤字というのはアメリカが外国から物を買いすぎるということで、言換えればアメリカの経済力が弱って、アメリカ国内の生産力が落ち込んでいるということである。

債務の赤字というのは、外国から金を借りているということである。

これもアメリカの政府がイ−ジ−な政策をしたことの付けである。

要するにこの両方ともアメリカの国内問題である。

それに較べ日本は昔も今も貿易立国である。

内需よりも輸出が奨励されるという意識が国民の隅々にまで行き渡っている。

輸出は善で輸入は悪という概念が国民の隅々にまで行き渡っている。

又、以前から日本は輸出品の2重価格のことが問題にされ、すぐダンピングということで問題提起を受けてきたが、これなども本来、日本人の方が文句を言うべき問題である。

日本で高く売って、外国で安く売るのだから、外国人からはもっと喜ばれても良さそうなもので、日本国民の方が怒るべき事である。

けれども、世界の常識では生産地から遠くなれば高くなるのが常識で、そうなっていない日本の経済システムテムというのは不可解であると受け止められてもし方がないだろう。

考えてみれば、物を作って売るという行為は、コストと利潤の関係でいえば、コストを割るほど安くはならないのが当然である。

日本経済の競争原理というのはコストと利潤で競争するのではなく、他社とのシェア争いで、本来の競争原理から掛け離れているところに問題がある。

他社とのシェア争いに勝つためには、当然コストの低減の競争に勝たなければならない。数こそ力であるという訳である。

コストを下げるということは経済原則にかなっているが、外国人の目から見ると、ここに技術革新が存在しているということを見落として、表面の価格の動きばかりを見て、すぐダンピングに結びつけるという、彼らの不手際は見逃せない。

とにかく日本企業は技術革新につぐ技術革新で、コストを外国人がびっくりするほど下げている。

この事は認めなければならない。

外国のジャパン・パッシングをする人は、そのところまで深く物を見ていない、けれども外国の方が日本国内よりも安いというのは我々も納得できない。

ただ想像で言えば、この問題には流通の問題が絡んでいるのではないかと思う。

と言うのは、日本はそれだけ流通機構が複雑で、その分マ−ジンが嵩むのではないかと思う。

その価格差は流通のマ−ジンの差ではないかと思う。

この流通ということも日米構造協議の会議の中の議題になった問題であるが、これも私の独自の見解によれば、日本独特の相互扶助の精神で、流通の各段階で少しずつマ−ジンが入るようになっているのではないかと思う。

物を生産する現場から人の手にわたる度毎に少しずつマ−ジンを払うことによって、流通業界そのものが潤うという、日本人独特の相互扶助の機構ではないかと思う。

外国ではこの流通のマ−ジンを取り払うことでコスト・ダウンを図ろうとするが、日本は流通よりも生産の過程に技術革新を導入して、製品そのものの価格を下げることに努力した結果だと思う。

 

          サ−ビス業の企業構造

 

このようにして製造業等においては次から次へと技術革新が起きて、コスト・ダウンというのが図られた。

けれども金融とか証券というのはサ−ビス業であって、製造業とはかなり違う業務形態である。

その形態というのはほとんど古典的と言われるほど古典的で、その本質は100年掛かっても変わるではない。

今、その概念が変化している。

100年掛かっても200年掛かっても変化のしようがないそういう概念のもとに、損失補填の規定というものが成文化しようとしているわけである。

本来、補填された金というものは証券会社の純益であった筈である。

バブル経済が大きく膨らんだ時点で、各証券会社は自分でも信じられない程の利益を上げたに違いない。

けれども、それをそのまま自己の利益として申告しても、どうせ税金で持っていかれるので、その前に得意先に迷惑料として、払い戻してやれば又今後も利用してもらえるからという気持ちではなかったかと思う。

そういう意味で政府としては利益を吸い上げる方法というものを考えておくべきである。

今、経済界の倫理とかモラル、又日本盤SECの設立が問題になっているが、税務署の監査の機関を充実すれば、この損失補填の問題は解消できると思う。

この税務署の監査というのは映画にもなっているが、今までは監査の対象がパチンコ屋とか医者とか、いわゆる常習になっている業界にのみ集中し、金融業界や証券業界というのは堅いものという概念が出来上がっていたので、甘かったのではないかと思う。

税務署の機能、機構を充実すれば恐らく消費税程度の税収は十分カバ−出来るのではないかと思う。

特に今回の補填の部分に課税するだけでも相当な税収になるのではないかと思う。

一体あの補填の部分には課税されているのかどうか、どうも分からない。

金融界というものは従来、手堅く、信用が厚く、慎重であるという一般的な概念があった。それが戦後の高度経済成長の中でそういうモラルが喪失してしまった。

何故そうなったかといえば、やはり非常に苛酷な過当競争であったと思う。

製造業であればコスト低減競争でシェア争いに打ち勝つという手段の選択があったが、金融、証券では手数料、金利というものは固定されていたため、直接、シェア争いをしなければならなかった。

勢い、上得意様には過剰なサ−ビスとなってしまったと見るべきである。

又、補填を受けた側においても、補填を受けたことの認識が無いのも不思議である。

1個人の料亭経営者が何億という不正融資を受けていたというのも不思議なことである。

一体この金は何処に流れたのだろうか?

そんな詮索よりも、まず経営者、金融、証券会社のトップがこうした不祥事を生むに至る精神構造、トップのモラルの方が先決である。

金融と証券を同じ丼に入れて論ずることは無謀なことではあるが、日本の経済界のトップの考え方の腐敗という事を、一般国民はもっと謙虚に受け止める必要がある。

以前、優秀な人材が日本を滅ぼすという論評を書いた事があるが、これは真実だと思う。

50年前の日本の優秀な人材は全部軍部に流れた。

日本の軍国主義が日本を破滅に導いたとすれば、その優秀な人々が日本を破滅に導いたといってもいい。

それと同じ事が今、日本の経済界に起きている。

戦後の日本の優秀な人材はことごとく経済界に流れた。

金融、証券、生命保険はことごとく日本の優秀な人材を抱え込んでいたわけである。

その人達が、今、日本の信用を失墜させようとしている。

その人達がマネ−・ゲ−ムに踊りまくっている、既に踊りの宴は終わったかもしれないが、この数年というものは浮かれに浮かれて踊りまくっていた時代があったわけである。

それがため、枠の外、常識外の事までしでかしたわけである。

日本は再び日本の優秀な人材が破滅に導こうとしている。

この証券不祥事や不正な金融というものは、日本国内だけの問題では終わらないと思う。

国際的な信用の失墜という形ではねかえって来ると思う。

日米構造協議では10年間で430兆円の公共投資をすることを約束させられている。

1年で43兆円の公共投資である。

これだけの公共投資をすれば日本も相当社会資本の整備が出来るはずであるが、その金がマネ−・ゲ−ムの方に流れてしまって、一向に国民の方に流れてこない。

国民はこの厖大な資金の恩典に浴せないでいる。

先にも述べたように公共投資を拒んでいるのは案外日本国民自身であるような気もする。

この国民を説得することは資本主義社会では非常に困難な事である。

個人の人権は守らねばならず、自由は束縛できない、強制力は行使できない、とならば、ただただ時間を掛けて説得するのみである。

その分、経費はアップするという悪循環ばかりである。

住民を説得して公共投資を推進するのは、本来は地元選出の国会議員でなければならないが、それをする国会議員というのは恐らく一人もいないだろうと思う。

以前、田中角栄という総理大臣がいて、地元の公共投資を大いにすすめたが、国民全体からは総スカンを食った事がある。

地元の利益優先ということは、今は、環境の問題が浮上してきて、あの時代とも様子が変化してきている。

道路や橋を作れば良いと言う時代は、すでに過去の物になっている。

人間の意識が便利さよりも環境の方を大事にするようになったと言うと格好いいが、その本音のところは保証金アップを狙っていると見ていいのではないかと思う。

名古屋地方の新空港の建設の問題でも同じ事が言える。

保証金アップをそのままストレ−トに打ち出すと、いかにも守銭奴と見られることを恐れて、環境という脇の方から保証金アップを狙っているのではないかと思う。

そんな訳で公共投資というのは国民全部が願っているにもかかわらず、いざ具体化しようとすると地元の保障問題で暗礁に乗り上げてしまっている。

 

          日本国民の意識の問題

 

こうなってくると経済の問題が経済問題でなくなって教育の問題や、環境の問題にすり変わってしまう。

元々、人間の生活というのは経済だけではないが、日本というのは公共の概念が欧米と違っており、狭い土地に大勢の人間がひしめき合って生活しているので、難しい問題ではある。代替地があるとは言うものの、移り住む人間の方は古いしがらみから脱却することが難しく、金の問題ではないといいながら保証金にこだわる。

こういう問題は公害問題でよく浮上してきたが、代替地に移ることを拒否するという気持は一体どういうものだろうか。

ここにあるのは個人の我儘ではないかと思う。

代替地を用意するのに移転しないというのは社会に対して反乱しているのと同じでなかろうか。

代替地が無いのに移転していけというのなら乱暴な方法だが、代替地を用意すれば社会的な見地に立って、それを承諾するのが良心的な社会人ではないかと思う。

先祖伝来の土地だとか、生活をどうするのかという言い分は通らないと思う。

人は自分一人で生活している動物ではない。

社会という組織に依存しながら生活する動物である。

その社会の要求が自分の要求通りにならないからと言って無視するのは社会性に欠けていると思う。

土地問題が浮上したとき、私権の制限ということが問題になったが、当然なことである。

公共優先の立場から私権はある程度制限すべきである。

私権よりも公共性を優先させるべきである。

道路が計画される。その計画に個人の土地が引っ掛かるとすれば、公共優先の精神から土地所有者の所有権というものはなにがしの制限を受けても致し方ないという法律は早急に作るべきである。

土地というのは、バブル経済を見る迄もなく、持っているだけで資産価値が上がって、銀行に預金するよりも有利だという心理が、バブルを生み、それが高じて証券不祥事、不正融資が生まれたわけである。

この土地を持っているだけで儲かる、銀行預金よりも値上がりがいいという、この所を是正すれば全ての問題が解決できると思う。

資本主義の経済体制の中で、土地が個人の所有物として売買出来るところに問題がある。

土地に対する需要と供給がバランスしているので土地の値上がりというものに人々が期待している。

だから資本主義体制の中であっても、土地のみは売買できないという仕組みを作ればこういう問題は起きない。

売買できるというのは個人間あるいは民間同志では出来ない、けれども自治体なり公共の機関に対しては売買OKということにしておけば、公共投資というものはもっとスム−スに進と思う。

従来は民間同志の取引が土地高騰を招いているのである。

それに引きずられる形で税金がアップするという、後追いの形である。

自由主義経済の中において土地だけは買うのも売るのも不自由にしておき、国家なり自治体なりに土地に対する権力を持たせておけば、公共投資や社会資本の整備というのはもっとやり易くなると思う。

今の日本というのは、自由は大声で叫び続けるが、公共とか社会に対する奉仕という事になると、個人の自由といいながらマイナスの方向に気持ちが向いている。

公共や社会に対する奉仕というと、お寺や、お宮の清掃ぐらいにしかイメ−ジが浮かばないが、公共投資や社会資本の整備に協力するということが一番大事な社会奉仕である。

これはただではない筈である。

それに見合う代替地なり金額の保障というものはあるはずである。

土地の全く自由な売買というものがバブル経済を生み、それが目下、諸々の悪業の根源となっている。

湾岸戦争が終わり、ソ連の共産党が崩壊した今、日本の黒字は行くところが無い。

大いに内需拡大を図らなければならない。

こんな時には大いに公共投資や社会資本の整備に金を使うべきである。

日本は戦後輸出で、金を稼ぐばかりに専念してきた。

これからは金を使うことを真剣に検討すべき時期だと思う。

ODAもいいだろう、海外に金を貸すことよりも、まず日本の中で立派な住宅、有効な道路、便利な鉄道、24時間発着できる空港、を作るほうが先決だと思う。

日本は戦後46年間で我々自身でさえ驚くような発展をしてきた。

けれども、この発展というのは部分的なもので、一部は確かに世界の最先端かも知れないが、如何せん層が薄い、奥行と広がりが無い、点と線である。

又、日本がこれから先、地球というものが存在しつづけ、世界というものが存在するかぎり、貿易立国であらねばならない。

日本にある資源というのは人と水と空気しかない。

貿易立国ということは言い換えれば商業国家であり続けるということである。

そのためには信用が一番大事である。

日本の自動車というのは故障がないという信用の元で売れるのである。

信用というのは一朝一夕に出来上がるものではなく、永い年月の間に培われたものである。今回の一連のスキャンダルはこの日本の金融の信用を一辺に吹き飛ばしてしまった。

そういう意味でこの一連のスキャンダルは国内の問題ばかりでなく、海外にも大きな影響を与えたものと思う。

日本経済の悪の根源が全て土地にあると私個人はそう思っているが、もしそうだとすると、これは大蔵省とは別に国土庁とか、経済企画庁とかそういう官庁の出番となってくる。

実際問題として土地を民間同志が勝手に売買して地価をつりあげるということは、放任されるべきことではない。

土地の問題の時、銀行の金利が安いので土地高騰が起きるという話が出たが、金利の問題もさることながら、土地という限られた資産を私有物として見做す事自体から考え直さなければと思う。

自由市場経済の中でも土地のみは例外にしておくべきである。

国家統制にしておくべきである。

日本の土地というのはこれから先、何百年、何千年経とうとも地殻変動でもないかぎり増えもしなければ減りもしないはずである。

それを私有物と見做す事自体時代遅れである。

日本人が土地というものに確執せず、もっと精神的に蛋白ならば現状でもかまわないが、現状のように土地に無闇に確執し、利殖の手段とするような場合には国家の統制が必要である。統制経済、計画経済が時代遅れであることはソ連の例を見る迄もなく分かり切ったことである。

けれども現実の今の日本の有様を見ていると、こうでもしなければ日本経済の健全化は図れない。

土地売買がバブル経済を生み、バブル経済が証券不祥事、不正融資を生んでいるのである。

日本の公共投資が遅れ、社会資本の整備が遅れているのも、この土地の私有制がネックになっているのである。

日本の国民は公共投資や社会資本の整備が遅れているのは行政のせいといいかねないが、これは主客転倒である。

行政サイドは常に公共投や社会資本の整備を図ろうと行動している。

それを阻止しているのは常に国民の側である。

行政サイドは住民と名のつく人々から悪口を言われても、たたかれても、反発することが出来ない。

主権在民ということで常に行政サイドはたたかれ悪口を言われ続けているが、公共投資をし、社会資本の充実を図らなければと思っている、その実現を阻止しているのは住民と言う国民の側である。

地元選出の国会議員はアンタッチブルである。

なんとなればタッチすれば次の選挙で落選するからである。

だから日本国内に金がだぶついてもそれが出来ない。

それが出来れば多分最近の一連の経済界の不祥事は浮上してこなかったと思う。

金がだぶついてその行き場がないので、こうした事態が起きたものと思う。

こうした一連の事件が起きても経営者のモラルを云々する事はできる。

けれどもあらゆるプロジェクトに反対する人々のモラルはどうやって問い、どうやって向上させるのか?

反対側が常に正しいとは言えないし、反対派の人々にとって公共投資や社会資本の充実ということはどうなっているのだろうか?

こうした国民的なコンセンサスと個人の欲望とのバランスにおいて、そのモラルはどのように問われるべきなのか?

誰も、プロジェクトに反対する側のモラルを問うことは出来ない。

過去の成田闘争においても先祖の土地を守る側には支援者がついたが、プロジェクトを遂行する側は強行突破という手段しかない。

人々は安易に話し合うという表現をする。

この話し合うという表現は欺瞞である。

プロジェクトの遂行を遅らせるだけで円満に解決できたことが無い。

行政側の説明がないとか、説明が不足しているとか、我々には相談がなかったとか、いう理由で反対運動を容認する理由にはならない。

ただ事態の解決を遅らせるだけである。

主権在民と言いながら在民が行政サイドの公共投資促進や、社会資本の整備を遅らせているにすぎない。

大きなプロジェクトになるとその完成までの年月も長くなり、その準備段階の土壌作りもその分ながくなるが、この間に人々に金欲や思惑が暗躍して土地をつりあげる。

このつりあがった土地価格で保障問題が提起されるので、いつまでたっても解決がつかない、その挙げ句一人の反対者のために全体が稼働しないという事態に成りがちである。    

 

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