46年前の日米の現状
1991年、平成3年、10月10日、名古屋商工会議所の二階ホ−ルで日米経済関係を考えるシンポジュムが開催された。
それぞれに各パネラ−の云われる事はもっともな事ばかりであった。
しかし、いくら有意義なシンポジュウムであっても、これによって日米関係が良くなるものではないと思う。
日本とアメリカというのは、ペリ−の来航の1853年から始まっているわけである。
その間いつも円満な関係であったとは云いきれない。
太平洋戦争という、特殊な時期というものを除外したとしても、常に良好な状況にあったとは云いきれない。
考えてみれば、これは当然な事である。
風土が違い、文化が違い、民族が違い、習慣が違うのである。
他民族との交際というのは始めから困難なことである。
世界一大きな太平洋を挟んでの交際である。
同じアジアの朝鮮や中国に対してもうまく出来ないのに、うまくいくと思う方が間違っていると考えてよい。
日本だけではなく、世界中何処の国においても、国内の政治もうまくいかないのに、主権と主権のぶつかり合う外国との交渉、交際、貿易が、そう簡単にスム−スに運ばないのが当然と考えなければならない。
だからといって戦争に訴えるわけにもいかない。
50年前なら外交問題がこじれた場合は戦争で解決するという手段が取られたが、この戦争に訴えるという事は、実に愚かな事という認識が世界共通の認識となった今、外交のこじれが、戦争になるという事は少なくなった。
最近の日米関係の問題点といえば、やはりアメリカの対日貿易の赤字、日本側から見れば対米貿易の黒字ということになる。
しかし、この点については、実に不思議なことである。
対米貿易について、日本からアメリカへの輸出品目は付加価値の高いものが多い、車とかテレビとか様々な高付加価値の商品が多いとは承知しているが、日本はアメリカから文句を云われるたびに、それなりの努力をして、対策をしている。
そのよい例が、自動車の自主規制である。
これなども見方を換えれば自由貿易でなくて、管理貿易である。
本来、日本のメ−カ−は完成品をアメリカに持っていけば、もっともっと売れるのだけれども、アメリカの云うことを聞いて自主規制している。
いわばアメリカ側の言い分に協力しているわけである。
しかし、そこは日本側も商売人であるので、約束事に引っ掛からないように小型トラックを輸出する、という抜け目のない点も、ずるいといえばずるいが、それでもアメリカ側の言い分を聞いて協力している、という点は紛れもない事実である。
このような事は半導体においても同様なことが云えると思う。
前にも述べたが、わが国の内部においてはアメリカよりも高い商品を買わされている。
この価格の問題の方が、本当はもっと重要であろうと思うが、目下のところ、価格の問題よりも、量の方に視点が向いてしまっている。
日本で作っている商品が、アメリカよりも高い値段で売られていることについては、日本の消費者はもっと怒るべきである。
この点が、アメリカ側から見るとダンピングに映ることは当然の成り行きである。
日本人から見てもそうではないかと疑いたくなる。
それよりも不思議に思う事はあの自動車王国のアメリカが、どうして此れ程迄競争力を無くしてしまったのかという点である。
アメリカの大量生産方式を作り出したフオ−ドがどうして、日本のメ−カ−に押しま繰られているのか、この事実の方が不思議である。
ここには、アメリカ人と日本人のビジネスに対する本質的な考え方の違いが潜んでいるのではないかと思う。
アメリカの企業で競争力を失ったのはフオ−ドばかりでなく、あらゆる業界で日本に押され気味である。
ただ、アメリカ企業で日本より競争力の勝れているのは航空機産業のみである。
これは超ハイテク産業である。
この分野のみは、いまだに競争力を保持しているが、それでもFSXの開発に見られるように、アメリカ側は、既に開発というプロジェクトに対して防御の姿勢を示している。
だからFSXの開発については、日本だけの独自の開発に警戒心を抱き、パ−トナ−として、その成果の分け前にあずかろうという魂胆が見え見えである。
日本とアメリカの産業の中で、航空機産業のみがアメリカが誇りうる産業である。
他の産業は全て日本側がアメリカを凌駕してしまったわけである。
この現実を眺めると、どうしても、アメリカ人と日本人のビジネスに対する考え方の違いというものが存在すると思われてならない。
例えば、QC活動というのがある。
クオリテイ−・コントロ−ルという言葉を初めて聞いた時は、やはりアメリカはすごいなあと、偉大だなあと、心から感心したものである。
ところが、後になってよくよく解ってくると、アメリカ企業ではこんなQC活動なんてしていないという話である。
このQCの概念を作り出した、デミングという人を、日本企業の人では知らない人がない状況であるのに、アメリカでは日本よりも知られていない、という事を知った時には二重にびっくりしたものである。
QCの話もさることながら、フオ−ドの自動車の組み立てラインの流れ作業というものを初めて知った時も実に驚いた。
自動車を造るのにこんな合理的な方法があるのか、ということで、その合理性にびっくりしたものである。
この流れ作業も、QCも、戦後、日本の企業はすべからく模倣して、今日を築いたわけであるが、本家本元の方は零落してしまったわけである。
このことは生産性の合理化の競争というよりも、企業家、経営者の、経営の仕方に問題があったのではないかと思う。
企業家精神の違い
終戦の時に日米の国力の差を知っているものにとっては、理解しがたいことである。
終戦後の占領時代、アメリカ軍はジ−プに乗って日本全国を席巻し、大型の乗用車が焼け野原の町を席巻した時、日本がアメリカに追い付き、追い越すなんて事を誰もが、信じられなかった。
それが46年後には現実のものになっている。
終戦後アメリカ軍を通じて、アメリカ文化というものに始めて接した日本人は、心からそう思っていたに違いない。
その頃、日本がアメリカに負けたのは、物量で負けたということが、よく云われていた。
その当時は実際そういう風に見えた。
アメリカ兵の乗り回すジ−プには無線機が付いているし、アメリカ軍の軍属の乗り回す大型乗用車にはラジオがついていた。
土木工事ではブルド−ザ−が活躍していたのを見ると、別世界の人間のように見えたし、そう思えた。
その時に日本人の乗り物といえば、普通の人は自転車、物を運ぶトラックやバスは木炭車の時代である。
その当時、子供だった私自身、よくもこんな国と戦争をしたものだと、子供心にもその無謀さに、唖然としたものである。
この時点で、アメリカは大量生産方式と、大量消費の時代に入っていたのである。
そして原子爆弾というものは、こうした産業界の底力の上に開発されたに違いない。
その後、ジェット機というものが出現してきた。
朝鮮動乱の頃だったと思うが、プロペラのない飛行機などというものは信じられなかった。
ところが、それが空を飛んでいくのを見た時は、これでは日本が今後いくら頑張っても、アメリカには追い付けないと思ったものである。
ジェット機というのも今でこそ当たり前であるが、日本がサンフランシスコの講和条約締結の前の時代では、本当に驚異だった。
本当に、心からアメリカに追い付き追い越すなどということは信じられなかった。
46年前には此れ程の格差があったのである。
日本がアメリカに追い付き追い越したということは、やはり日本人に固有の特質があったのと、アメリカ側にもそれと同じような固有な特質があったのではないかと、素人なりに想像する。
細かい点については色々な意見が出尽くしているが、私の思うところでは、これはお互いの経営者の考え方の違いではないかと思う。
それには日米の文化の違いというものも関係してくるが、経済問題について限って云えば、経営者の考え方、乃至は経営に対する物の考え方の違いではないかと思う。
アメリカでは最近、M&Aが盛んだと聞く。
M&Aというのは企業を売買して併合、合併することであるが、企業を売買するなんて事は日本では考えられない。
日本にも企業の合併という事は存在するけれども、日本の企業の合併というのは、その企業を潰したくないので、存続させるために、経営権を人の手に渡して、社名は変わるけれども、事業そのものは残しておきたい、という経営者の願望の現れであるのに、アメリカの企業家はその反対で、企業を手放して、お金を得るためにM&Aで企業、会社そのものを売買するというものである。
一言で云えば、アメリカの企業というものは、経営者が私物化している。
企業は経営者の私有財産という考え方である。
だから、土地や家、はたまた絵画と同じように売り買いする事に、精神的に蛋白である。我々、日本人の経営者は、此れ程、蛋白でドライには割り切れない。
日本の経営者というものは、自分の興した企業というものに愛着を持ち、たとえ資金繰りに行き詰まって、経営権を人の手に委ねなければならない時でも、事業そのものは延ばす事を願っており、とても、アメリカ人のようなドライな思考には陥っていないと思う。
アメリカの経営者が企業、会社を私物化しているという事は、アメリカ人経営者がその企業なり会社なりから、余りにも多くの報酬を取り過ぎている、という点にも伺い見る事が出来る。
そこにあるのは絵に書いたような資本主義の見本である。
資本主義の神髄そのものであり、21世紀を目指そうとする現時点では、古典的とも云える資本主義的思考である。
マルクス、エンゲルスが攻撃して止まない、古典的な資本主義社会としての、資本家であり、経営者である。
企業乃至は会社というものは、資本家にとって金のなる木である。
だから資本家又は経営者というものは、金のならなくなった木は、中古車と同じで、売ったり買ったりしても、何とも良心の仮借に感じないわけである。
ここにM&Aが盛んになり、それがひいてはアメリカの産業が競争力を失った原因ではないかと思う。
そこにあるのは資本主義、しかも古典的な資本主義の原点である。
ところが日本の経営者はアメリカの経営者とは違っている。
自分の企業が、金のなる木などと、割り切った考えではなく、事業そのものが、興味の対象である。
成功した時は、その結果として金が入ってくることはあっても、始めから金儲けという概念はない。
この金儲けというのは、利潤の追求という事とは又別の概念である。
企業である以上、利潤の追求ということは当然の事で、これがない事には企業そのものが存続しえない。
今回のシンポジュウムでトヨタ自動車の豊田彰一郎社長が発言した部分で、興味を引く数字を上げていた。
というのはGMでは内製品と外注品の割合が70%、トヨタは30%という数字である。
これは何を意味するかというと、GMでは下請けに出す部品の点数が少なく、トヨタは下請けに部品を沢山作らせているということである。
つまり、GMは、GMというビッグ・ビジネスにどっかりと座って王国を作っており、トヨタは小さな王国で、傘下に家来を沢山持っているということである。
これは、トヨタの社長の言葉とはいえ、アメリカと日本の産業界全体に云える一般的傾向ではないかと思う。
アメリカの企業と云うのは、GMの例のように、日本の企業と比べて、内製品の割合が高いという事は、自社製品が多く、1から10まで、全て自分の所で作ろうとしているのではないかと思う。
ところが、日本では何もかも自分の所で作るのではなしに、傘下の下請け、乃至は他の優良な部品メ−カ−の良い部品をどんどん取り入れて、それを商品に取り付けるということである。
裏を返せば、アメリカ企業の方が膠着した経営で、日本企業の方が柔軟性に富んだ経営をしているということである。
フレキシビリテイ−に富んでいるという事である。
内製品と外注品の問題は、航空機産業のように、自動車産業よりももっと高度なハイテク産業になってくると、その割合というものは又違ってくると思う。
アメリカの航空機産業がまだ日本を凌駕しているといっても、その製品の全てを自社で賄うというとは出来ないだろうが、自動車産業においては内製品が多くて、外注品が少ないというのは、アメリカの企業の競争力の低下の一つの原因ではあろうと想像する。
自動車産業にしろ、航空機産業にしろ、高付加価値の商品というのはアッセンブリ−産業である。
何百何千という部品の寄せ集め商品である。
その部品の、一つ一つが良い品質でないことには、ト−タルとして良い自動車、良い飛行機というものが出来上がらない。
こうした総合的な力が、競争力を左右するのである。
その総合力というのは、一つだけが突出していても駄目で、あらゆる部品が満遍なく高品質でなければ、総合的に良い商品にはなりえない。
この点から見ても、アメリカの自動車産業の競争力の低下は、そういう点からも云えるのではないかと思う。
又、経営の仕方というのが、アメリカの経営者と日本の経営者では随分違う。
経営の仕方というのは大雑把に云って、トップ・ダウンとボトム・アップというのがあるが、日本以外の国ではトップ・ダウンが普遍的だろうと思う。
特に西洋人というのは、我々が想像する以上に、階級意識が強い。
指図する人と、される人というのが明確に別れている。
企業の中となれば、当然この関係も濃密になっており、当然、トップ・ダウンで事が運ばれる。
ところが日本では階級意識というのはほとんどない。
文字通り、平等社会であるので、経営者サイドが、社員の中の意見を吸い上げようという風潮が強い。
良い事、効果のある事ならば、誰の意見でも取り入れようという気持ちを持っている。
その現れが改善提案という制度である。
日本の大企業でこの制度を取り入れていないところはないといってもいいと思う。
改善提案制度というのは主に現場サイド、生産現場サイドのものであるが、経営者が下の者の意見なり、アイデアなりを取り入れようということは大変重要な事だと思う。
組織の中の役割分担という事は、民主主義の社会では不可欠な事であるけれども、それをドライに割り切ってしまうのと、柔軟に対応するのではかなりの差が出てくる。
それが日米の経営の違いとなっているのではないかと思う。
やることはやってしまったので後は知った事ではないというのと、やることはやったが、もう少しする事があるのではないかと考えるのでは、長い間に相当な違いが出てくるのではないかと思う。
以上述べたように、日米の産業界の違いは
1 企業を私物化している
2 内製品と外注品の割合
3 経営の仕方の違い
と、思い付いただけでも此れ程ある。
もっと専門的に調べればいくらでも出てくるだろうと思うが、中でも、2 の内製品と外注品の比率の問題は、アメリカ産業界全体に関わる問題であろうと思う。
高付加価値の商品においては内製品の割合が現状のように多くては、これからも益々競争力を失っていくのではないかと思う。
これでは下請け企業も伸びないし、下請けの企業を下支えする事も出来ない。
トヨタの看板方式というのは特に有名であるが、これは人に云わせると下請けを圧迫、搾取という見方をする、古典的なマルクス主義者のような云い方をする人もいるが、やはりトヨタは下請けを信頼して、その部品を使うという事は、下請けの製品もそれだけ信頼に足る、良い部品であるという事だと思う。
トヨタの下請けは100%トヨタに依存しているわけではない、という事を社長は数字を上げて説明していたが、社長の云っていることは真実であろうと思う。
すると、下請けとは云うものの、下請けの経営というものがトヨタに支配されているわけでもなく、下請けはトヨタとは別に他の製品を作り、又他のメ−カ−にも収めているわけである。
つまり、トヨタを頂点とするピラッミットの裾の広がりがあるという事である。
だから日本の自動車産業というのは、形に例えれば富士山のように、大きな裾野を持っているわけで、アメリカは大きな高層ビルデイングのようなものである。
この状態が産業界全部にあると思えばいい。
今、この富士山型産業構造とビルデイング型産業構造が太平洋を挾んで熾烈な競争をしているわけである。
この二つが21世紀に向けてどうのように展開していくかということが今後の大きな問題である。
ここで、以前、私が日米再衝突論というものを述べたが、やはりこれはあると思う。
再衝突といっても、再び太平洋を挾んで戦火を交えるのかというと、これは、私自身そこまでは行かないと思う。
けれども、今後ともアメリカのプレッシャ−は強くなるし、綺麗事では済まなくなるとは思う。
借金の踏み倒し
現在、日本はアメリカの国債の30%を買っている。
つまりアメリカの抱えている借金の30%は、日本が負っているという事である。
又、日本の貿易黒字、アメリカの対日赤字は今月(1991年10月)では、より一層増大している。
もし、アメリカが今、これらの決済を止めてしまったら、日本は戦争をした以上に大混乱である。
銃を持って戦う前に自己破産である。
又、46年前の生活に戻らなければならないであろう。
50年前には、石油を止められただけでパ−ル・ハ−バ−と云う事になった。
今回は貿易の決済、国債の償還を止めるだけで、日本は銃を持って戦う前に敗戦である。
アメリカが借金を踏み倒すだけで、日本は貸し倒れしてしまう。
もし仮に、アメリカが借金を踏み倒したとして、地球上で何処の国がアメリカを非難するであろう。
地球上160ヵ国あるが、アメリカの行為を、何処の国が非難して、日本の権益を弁護してくれる国が、一ヶ国でもあるだろうか?おそらく一ヶ国もないと思う。
このアメリカの借金踏み倒しということは、未だ日本で誰も云っていない。
けれども可能性としてはあり得ると思う。
この手段は、アメリカも日本も銃を持って戦うということをしなくても、日本を完全にノックダウンさせることが出来るという事である。
日本側としても、自衛隊やF15でワシントンを攻撃するなんて事は出来ない。
なんとなれば、日本は平和憲法で以て戦争を禁じられているからである。
今、我々は、アメリカの国債の30%という対米黒字と云っているが、これは単に数字だけを云っているのであって、実際にアメリカが一言、「日本との国交は断絶する」と云えばそれで日本は46年前に逆戻りである。
今、南米では債務を抱えて青息吐息の国がある。
日系大統領の出たペル−をはじめ、ブラジルなどもそうであるが、あの国が借金の踏み倒しを何故しないかといえば、あの諸国はもしそんなことをして、その後先進国との交際をストップされたら、自分達が困るので、パイプを切断することが出来ないという事情がある。
貸した側の先進国の方でも、踏み倒されては困るには違いないが、その途端に、自国が転覆するわけでもない。
だから少しずつ金を注ぎ込んでいるが、最終的には元利合計きれいに精算されることはないだろうと思う。
債務国の方も踏み倒しが出来ない事情があるわけである。
ところが対米関係においては、南米諸国とは事情が違っており、アメリカは日本からの借金、債務があっても、それを踏み倒せば、日本が破産する事はアメリカ側も知っており、日本側も分かっている。
又、現実にそれをやったところでアメリカ側は困ることは何もない。
日本の輸出に依存しているとはいえ、日本からアメリカに輸出されるもので、アメリカで出来ないものは何もない。
アメリカにとっては少々物の値段が高くなる程度のことで、半導体にしろ、車にしろ、テレビにしろ、国内で出来ないものはない。
アメリカ側は日本と断交しても困ることは何もないわけである。
その点、日本は作っても売れないという状況に立たされる。
アメリカに売れなければ世界に売れない。
というのはヨ−ロッパとアメリカとは同一歩調を取ると想像されるからである。
ヨ−ロッパ人にしてみれば、アメリカは同胞であるのが、日本人は異邦人である。
アメリカとヨ−ロッパに売れなければ地球上にマ−ケットはないということである。
借金の取り立てだけの問題ではない、マ−ケットそのものが喪失してしまうという事である。アジアはとても日本のマ−ケットにはなりえない。
今でも、アジアに日本製品は出ているとは云うものの、アメリカと比べれば比較にならない。第一アジアは購買力が無い。
そういう事態になればアメリカも当然、横須賀、厚木、横田から退却することになる。
日本の共産党や左翼、知識人は喜ぶに違いない。
翻って我々の生活はどうなるかといえば、車は車庫に入れたまま、自転車で通勤ということになり、電灯もおそらく停電しがちで、コンピュ−タ−もエレベ−タ−も使えなくなるであろう。
何となれば日本の電力というのは、石油に依存しているので、今ある備蓄を食い潰してしまえば、後はスム−ズに入ってこないからである。
石油というのはクエ−トとかイラン、イラクの中東から入ってきているが、その石油というのは、その大部分がアメリカ資本に牛耳られている。
クエ−トのように自国で直接管理している国があったとしても、アメリカの声が掛かれば簡単にアメリカ側についてしまうことが予想される。
今、我々は、アメリカとはパ−トナ−・シップとか云って、切っても切れない絆があるという前提の元で物事が成り立っている。
けれどもその前提が崩れたとしても、アメリカはアメリカ独自の道を歩くことが出来る。
アメリカにとってソ連との確執が無くなった分、その道は大きく広がったわけである。
今までの日米関係と云うのは、ソ連との冷戦の存在があったので、値打ちがあったが、ソ連との対立の無くなった今となっては、アメリカにとって日本の値打ちというものは半減したことになる。
アメリカの世論が、ソ連の次の敵は日本だというのも、あながち嘘のプロパガンダばかりではない。
ある面では真実を突いている。
ソ連の脅威というものが消滅したアメリカにとって、日本にこだわる必要は、アメリカ側には消滅していると思う。
日米のパ−トナ−・シップなどと浮かれている時ではないと思う。
だからといって、アメリカの言いなりになる必要はないけれども、それなりにアメリカの云っている真実、本音を見抜く事がより一層大事になってくると思う。
アメリカがはったりをいっているのか、それとも心底困っているのか、という点を見分ける必要がある。
今までは口先のリップ・サ−ビスで誤魔化せても、これからは日本サイドも本気で物を考えなければならない。
別な言い方をすれば、日米関係はより一層困難になってきたと云うべきである。
アメリカの対日貿易赤字などの解決は本気で考えるべきである。
けれども、これなどは構造的なもので、貿易とか外交の枠を越えた問題である。
アメリカも日本も資本主義的経済体制を取っている国である。
という事は資本主義という原則をもっと明確に前面に出す事が、その解決の近道である。
イギリスが英国病といわれた時期、サッチャ−首相の取った措置というのは、この資本主義の原点にたちかえることであった。
今、日本がアメリカとの貿易、及び債務の問題を解決しようとすれば、アメリカに対して日本の市場を開放するという事だと思う。
先の日米構造協議というのはその目的で開かれたものだろうと思うが、日本の公共事業にもアメリカの企業の参画をおおいに受け入れることである。
アメリカ企業が成功するかどうかは、アメリカ企業の手腕に掛かっているけれども、門戸を開かないことには、それを先方に納得させることが出来ない。
当然、日本側に多少の犠牲が出ることは致し方ない。
資本主義体制においては犠牲はつきものであり、生存競争、サバイバルは社会のダナミクスを生みだす根源である。
まず門戸を開いて、アメリカ企業も日本市場で堂々とプレ−をさせてみることである。
日本企業がアメリカで成功できるように、アメリカ企業も日本で成功するチャンスを与えることが第一条件である。
日本人というのは、すぐ日本企業の保護、日本の国益という事を前面に出すが、このように自分本位の主張を通そうとする事は、最早時代遅れである。
特に経済面では、国境という障壁が益々低くなっている時代に、外国の企業といえども日本市場で競争するチャンスは与えるべきである。
それでこそ21世紀に向って開かれた日本になると思う。
国際協調ということ
先に、田原総一郎の「世界が見える!」というテレビ番組で、ジャパン・パッシングの事を記述したけれど、この中で石川好の云っている事はかなり共鳴すべき処がある。
2国間の外交交渉については多少の摩擦は当然であるという点は、事実そうだと思う。
話し合いというのは、最初から合意に達するという事は、殆どありえない事であるし、交渉が決裂するという事だって普通にある事である。
一回の交渉でまとまらないという事も極普通の事である。
だから、日米において、交渉が長引くとすぐジャパン・パッシングと見るのは明らかに不穏当な云い方である。
ジャパン・パッシングで東芝のラジカセをハンマ−で叩き壊しているのは、明らかにパッシングであるが、アメリカも全能の神ではない。
アメリカのやる事にも間違いがあるという前提で物を考えなければならない。
これは当然の事である。
その時に、日本のとる態度がしっかりしていないと、再衝突ということになりかねない。
ソ連という国家が崩壊した今となっては、アメリカ一国のみがこの地球上に存在するビッグ・パワ−である。アメリカを侮ってはいけない。
このビッグ・パワ−に対して、ECがどれだけ迫っていけるか、という点が今後の世界を牛耳るポイントになるが、1992年にECが統合されると、日本とアメリカとECの関係をバランスさせなければならない。
今まではアメリカ一辺倒で済ませれたけれども、これからはそのエネルギ−をECにも向けなければならない。
ただし、マ−ケットとしてではなくて、あらゆる面で、ECとの強調、共同歩調というものを考えなければならない。
ヨ−ロッパというのは、わずか500ぐらいの王様に限定されているとも云われている。
そこに持ってきてヨ−ロッパとアメリカは異母兄弟のようなものである。
お互いに牽制し合うことはあっても、真から戦争をするということはありえない。
もしそうなった時には矛先はアジアに向ってくるであろう。
どちらにしても、アメリカとECが真から対立することはありえない。
となると、日本がECと仲良くやっていくにはどうしたらいいかと云うと、やはり、市場開放が一番協賛を得られ易い事ではないかと思う。
アメリカにしてもECにしても、日本の中で自由に企業活動できる様にしてやらなければならない。
というのは、日本の物、日本の貿易、というものを見た場合、すでにアメリカもヨ−ロッパも同じように日本のマ−ケットになってしまっている。
製品も大量に流れこんでおり、資本も流れこんでいる。
フランスなどは少々垣根を高くしているが、それでも日本の商品はどんどん入っていっている。
今度は日本側が門戸を開いてやる番である。
サッチャ−女史がいみじくも言っているように、日本は門戸さえ開けば、それで済む事である。
後は先方の企業努力で、成功するものは成功するし、失敗するものは、撤退するので、これは先方も納得するはずである。
ただ、この門戸を開くという点で、日本のリップ・サ−ビスだったとしたら駄目である。
やはり、その業界の体質までもある程度考え直さないと駄目である。
こうなると貿易の問題が、内政の問題となってくる。
先の日米構造協議の時、大阪で展開している、新空港の土木工事にアメリカの企業を参入させるということが話題になったが、土木工事とか建築工事では日本独特の商習慣がある。
門戸は開いたとしても、この日本独特の商習慣のために、外国の企業が参入できないでは、門戸を開いた事にはならない。
やはり、これは日本の独特の商習慣というものが、近代的な資本主義とは相容れないものであると云わざるをえない。
この日本独特の商習慣というものが、今回の証券スキャンダルの根源になっている。
日本の国内だけなら、日本の商業上の習慣も、意義があったかもしれない。
けれども、経済が此れ程グロ−バル化して、全地球規模で取引が行なわれるとなれば、日本独特の商習慣というものから、脱皮ということも真剣に考えなければならない。
日本の経済の範囲が日本の国内だけの時は、それなりに業者同志の共存協栄の為の商習慣であっても、日本の経済がこれだけ大きく成長して、マ−ケットが地球全域に広がった時には、やはり、それに見合う、マッチした、資本主義の原則により近い、市場メカニズムに近づかなければならない。
それを、日本の商習慣を盾にして、外国企業を寄せ付けないでは、世界から非難されても致し方ない。
46年前を振り返ってみれば、あの時点でアメリカが、日本で自由奔放に商売したら、日本は完全にアメリカの51番目の州になっていたことであろう。
あの時点で、アメリカ企業が日本で自由に商売できていたら、今のトヨタも松下も、ソニ−も存在し得なかったろうと思う。
けれども、今はそういう時代ではない。
あの当時の保護貿易というものは、完全に奏を効して、結果的には世界に冠たる地位を築いたわけである。
そうなった以上、その地位にふさわしい態度を取ることが、今後は他の国に対する当然な義務と化してきたわけである。
40年前の赤字の国のままの精神構造から脱皮して、黒字国として、鷹揚に構えていなければ、世界から後ろ指を指される。今がそういう時である。
という事になると、今、日本が黒字を抱えて頭を悩ましているというのも皮肉な事であるが、これが現実の姿である。
黒字を抱えて頭を痛めるという事は、贅沢な悩みであるが、やはり何んとかして、この黒字を減らさないことには、世界からよく思われない。
ならば、どうすればいいかという事になると、外国から物を買わなければならない。
黒字の問題が此れ程深刻になる前でも、日本はアメリカからC−130という輸送機を大量に購入した。
あの程度の物は、日本でも充分作れるけれども、外貨減らしの為に完成品として購入、さらに今回、政府専用機を2機完成品で購入している。
本当はもっともっとアメリカから物を買わないことには、日本の黒字は少なくなっていかない。
けれども、現実に我々の身の回りの物を例にとっても、アメリカ製品で欲しいなあとか、買いたいなあという意欲にかられるもの、購買欲をそそるものがない。
個人的に云えば、モダン・ジャズのCDは欲しいと思うが、あんなものはいくら購入したところで黒字減らしにはつながらない。
国民的に見ても、今の日本人はアメリカから買いたいというものは何もないのではないかと思う。
だから、ロックフェラ−・ビルやコロンビヤ映画の売買ということになるのだけれども、これを日本人が金に飽かせて買うということは、これはこれで、アメリカ人の神経を逆撫でする事である。
そういうところにも日本人は気配りをしてやらなければならない。
金の有る者が、金を出して買うのであるから、問題ないという態度は、これは経済の問題を離れて、文化の問題となってくる。
これが知名度の低い半導体の工場とか、自動車会社ならともかく、アメリカ文化の象徴のようなものを買い占めてしまうという事は、アメリカの市民に、少なからぬショックを与えたことは事実であろうと思う。
けれども、我々にとって本当にアメリカ製品の中では欲しいものがない。
それだけアメリカの商品は劣り、日本商品の方が優れているという事である。
これでは、日本人に外国の物を買え、アメリカの商品を買えといってみても、貿易収支は改善されないだろうと思う。
これと同じ事で、日本が門戸を開放して、アメリカ企業に、日本国内で自由に企業活動させてみたところで、そのアメリカ企業が、成功するかどうかは疑問である。
アメリカ企業でも、すでに日本で成功している企業もある。日本の現状を研究し、日本企業の盲点をついて、成功している企業もある。
だから、門戸の開放を云うことは、アメリカのただの口実かもしれない。
結局は企業努力によるところが大であるが、そこはお大尽らしく、鷹揚に門戸を開いてやればいいのである。
これはECに対しても同様である。
どんどん日本国内で競争させればいいのである。
良い商品が売れて、悪い商品が淘汰されるのは、資本主義の大原則である。
アメリカ企業だろうと、ECの企業であろうと、日本市場で生存競争を掛けて、サバイバル・ゲ−ムをすればいい。そのチャンスは与えてやるべきである。
市場ばかりでなく、資本の導入も大いに自由化してやるべきである。
日本のGNPが世界で1、2を争うということは、日本の中の経済がダイナミックに動いているという事である。
物も資本もどんどん回転しているという事である。
当然外国の商品も、資本も飲み込むだけのダイナミックスは存在し続けているわけである。そのダイナミックスが存在し続ける限り、日本は21世紀に向けて延び続けるに違いない。経済というのは人、物、金が動き回らない事には停滞してしまう。
一度停滞すると、戦争でも起こさない限り再び動きださない。
これは極端な云い方であるが、そう信じ込んでいる人も世の中には大勢居ることは事実である。
日本の政治改革について
日米関係についてはこの程度でペンを置くとして、日本の政治という事を考えると、これは又別の憂慮が沸き上がってくる。
日本の政治というのは実に情けない有様である。
マスコミや、ジャ−ナリズムがこぞって悪口を云っているが、これは致し方ないことである。
私のような反マスコミの人間でもそう思う。
特に海部総理大臣の重大発言から総裁選挙をめぐる一連の動きを見ていると、マスコミやジャ−ナリズムが批判するのも全く無理のない話である。
私自身も、マスコミから知識を得、認識を築いているが、これでは何時まで経っても政治改革は出来ない。実に嘆かわしい事である。
国民を蚊帳の外に置いたままで、自民党の派閥争いである。
ソ連の3日ク−デタ−と何ら変わるところがない。
大体、内閣総理大臣が解散も出来ないようでは、全くのロボットでしかない。
海部総理大臣に指導力がないと、一言で片付けられる問題ではない。
この体質は早急に是正すべき問題である。
ゴルバチョフが腹心の閣僚のク−デタ−にあったようなものだ。
ソ連のク−デタ−は失敗に終わったが、日本のク−デタ−は完全に成功りに動いている。
内閣総理大臣というのが、竹下派閥の意のままに、操られているという現状は、野党も、国民もこぞって改善するよう行動を起こさなければならない。
野党は政治改革が流れたからと云って、安心している時ではない。
日本の政治が派閥争いで終始してもらっては実際問題困る。
この事は日本国民がこぞって抗議行動を起こすべきである。
自民党内の抗争だから知らぬ存ぜぬで済む問題ではない。
日本の政治は自民党の党利党略に片寄っているといわれているが、これは党利党略よりももっと次元の低い、派閥の利益のみで動いているではないか。
この派閥の横暴という事は、野党ももっと糾弾すべきである。
党レベルでは党利党略、自民党内においては派閥の論理、こんな馬鹿げた政治を、黙って許しておくべきではない。
人の口というのは誠に重宝なもので、野党も、自民党も、派閥の領袖も、全部、口を開けば政治改革を叫びながら、いざ実施しようとすると、反対、反対、そして足の引っ張りあいとなる。
政治改革というのは口で言ったり、言葉として書くことは簡単だが、当の国会議員にしてみれば、自分達の死活問題である。
総論賛成、各論反対の典型的なものである。
それだけに党利党略を越えて、派閥の論理を乗り越えて、解決しなければならない問題である。
海部総理大臣の、在任中の実績には、確かに不味い面もあった。
その第一が湾岸戦争の対応である。
この時の対応の不味さは、小牧からクルド人の救援の飛行機を、出すとか出さないとかいう問題であった。
しかし、あの問題こそ、誰が総理大臣を務めても、簡単には結論の出せない問題であろうと思う。
宮沢喜一氏があの立場だったら、さっと出していたかといえば、彼としてもおそらく躊躇するのではないかと思う。
だから、あの件で海部総理大臣の対応が不味かったといって、責めるのは少々酷である。
それよりも、海部総理大臣の政治的手腕の弱さは、自民党内の派閥対策である。
自分が総理大臣であり、自民党の総裁でありながら、自分で解散も、内閣総辞職も出来ない様では、これはもう人から笑われても仕方がない。
あの「重大な決意」と言った時、国会解散、内閣総辞職をすべきであった。
重大決意という事を聞いた国民は全部そう思っていたに違いない。
それを金丸氏の一言で、それが出来ないという事は実に情けない事である。
海部総理大臣はリクル−ト事件と消費税導入に伴う、自民党の最悪の状況の時、生まれてきたことは事実であり、今回、総理になるという宮沢喜一がリクル−ト事件に引っ掛かって、この時点では確かにリリ−フ・ピッチャ−的な存在だったかもしれない。
しかし、その間の実績に自信を持って、まず内閣の閣僚の首のすげ替えをしておくべきであった。
内閣の閣僚が、自民党内の派閥の力のバランスの上に成り立っている、と云う事も、実に前近代的な論理である。
これでは村の寄り合いである。200年ぐらい前の、田舎の村の、封建制の蔓延していた頃の、村の寄り合いの政治である。
この村の寄り合いの政治も悪い面ばかりではない。
封建制華やかな時代において、日本式の民主主義ではある。
所謂、合議制で成り立っている。
村の長の独断専行をセ−ブする、という面ではかなり民主的な形態を保っている。
しかし、200年前ならこれでいいかもしれない。
近代国家の国の政治、しかも後10年で21世紀に入いろうか、という時代の政治形態としては如何にも時代遅れである。
総理大臣が各派閥のバランスの力関係を鑑みて、その力関係のバランスの上に、閣僚を配分する。
又、その閣僚が派閥の領袖の司令で行動するなんて事は、じつに前近代的な政治形態である。
田舎の村の議会なら、それで通るかもしれないが、今の日本のように世界で1、2を争う経済大国になった国家が、こんな前近代的な政治形態を取っていては、世界の動きに対応できない。
その対応の出来ない事が、湾岸戦争の時に如実に露呈しているではないか。
海部総理大臣は湾岸戦争の対応で、もたもたしている間に、時が流れ、次の政治改革では命取りになってしまった。
国民の側から見て、海部総理大臣の人気が比較的良かったということは、あの湾岸戦争の時の対応の不味さが、案外点を稼いでいるのかも知れない。
平和ぼけの日本国民は、とにかく戦争というものに積極的に加担しなかった内閣総理大臣に対して、平和の使者というイメ−ジをダブらせていたのかもしれない。
その点、イギリスの前首相サッチャ−は実に正直である。
まさにアイアン・レデイ−にふさわしい、こちこちの鷹派である。
彼女には一貫した信念通っている。彼女の信念の一つにリ−ダ−・シップというものがある。「リ−ダ−が国民を引っ張っていかなければ」という信念がある。
こうして、リ−ダ−が国民を引っ張っていく、という事の裏には、リ−ダ−の独断専行、上意下達を遂行するという事である。
意志決定はトップ・ダウンでいくという精神である。
ところが日本の政治というのは合議制である。
自民党と社会党が合議して、話がまとまるわけがない。けれども合議制である。
サッチャ−女史の云う民主主義というのは、リ−ダ−が自分の信念を徹底的にPRし、自分の信念を相手に納得させて、最後に多数決で決定するというものであるが、日本の政治は、信念を相手に説得するという部分が欠落している。
その上国民の為になっているのかどうかという論議が欠落している。
議会の審議を見ていても、政策の論議が不足しているし、あそこに出てくる迄に与野党で合意が出来ており、形式だけの審議で、合意が出来ないものは、最初から廃案にするつもりで徹底的に反対であり、妥協点を見いだそうという努力は始めから放棄している。
そしてそこにあるのは、第一に党にとって良いか悪いかという判断が先になってしまい、国民が置き去りになり、国民不在の審議になってしまっている。
又、党の方は、党としての立場が先になってしまって、党を構成している個人が埋没してしまっている。
これは自民党も社会党も他の党も同様である。
現在の自民党が派閥の論理で動いているという事に対しては、本来、野党も攻撃すべきであるが、自分達も派閥に左右されているという弱みがあって、正面切って言えないところがある。
日本の組織というのは内部分裂を起こす。
小異を捨てて、大同に付くということがない。
まさに核分裂である。アメ−バ−の分裂である。
小さい組織と、大きい組織があると、外部から入る場合、大きい組織に入って、これで有利になったと思って安心していると、それが段々大きくなってくると又核が出来て分裂する。丁度アメ−バ−の分裂と同じである。
ただ分裂するだけなら、いくら分裂してもいいが、それが政治に干渉、政治を左右するようになると、これは大きな問題である。
派閥の力関係が政治を左右し、又派閥の利害得失で、内閣総理大臣が動かされるようではあまりにも国民を愚弄するものである。派閥の領袖の院政である。
政治改革などと大言壮語を云う前に、派閥政治を改めなければならない。
それこそが本当の政治改革である。
今回、問題になった小選挙区比例代表制併用というのも自民党内部からさえ反対が出ている。反対意見の出ることは、これはまだ正常な、健全な証拠である。
この反対意見を説得できなかったところに問題がある。
選挙制度に手を付けようと思えば、どんな制度だろうと反対が出る。
現に中選挙区の定数を是正するだけでも反対が出る。考えてみればこれは当然な事である。
選挙制度を選挙で選出された議員が審議すること自体が不合理である。
折角莫大な金を掛けて当選した国会議員が、素直に選挙制度の改革に応ずるはずがない。
そんなことをすれば、次に自分が再度当選する保障はなにも無いのである。
これでは何時まで待って改革できるはずがないと思う。
次期、宮沢総理大臣は一年以内にやるといっていたが、一体、何年前から政治改革が俎上に乗っていたのか、おそらくスム−スにはいかないと思う。
海部の時なら駄目だが、宮沢の時ならOKとする理由はなにもないのである。
宮沢総理大臣が自民党をどう説得し、野党をどう説得するのか見物である。
少なくとも政治改革が一年以上延びる事はこれではっきりしたわけである。
日本の政治をよく見ると市町村レベルでは、市長なり町長というのは、市議会議員や村会議員とは別の選挙で選出される。県レベルでも同様である。
しかし、国政レベルでは−−−−今までは自民党のみ、社会党の時もあったが片山内閣一回のみである−−−−内閣総理大臣を政党の国会議員から選出するというのはおかしいのではないか。理屈に合わないと思う。
やはり日本もアメリカ大統領のように、国会議員と内閣総理大臣とは、別々の選挙で出すべきでないのか?
内閣総理大臣を政党の国会議員の中から出すので、派閥がのさばるのであって、内閣総理大臣というものを全く別の選挙で選出すれば、総理大臣が派閥の顔色を伺うという事はなくなると思う。
その時の社会情勢で、自民党寄りの大統領?内閣総理大臣が出たり、社会党寄りの人がなったりすれば、国政がダイナミックになるのではないかと思う。
別の選挙で選出された首長が自分のブレ−ンとして、自分の手先となって動いてくれる閣僚を、自分で指名すれば、総理大臣が解散、総辞職も出来ないという、不様な事にはならないと思う。
今の総理大臣の椅子や、閣僚の椅子が自民党の中で、たらい回しにされているということ自体がおかしい事である。
これも派閥がくちばしを入れるからこうなっているのであって、大臣の任期も、特別な失敗がない限り、官僚が上手に対応してくれるので、閣僚としての使命感に欠ける。
テレビで国会審議を見ていても、全部官僚の作文の上に乗っているだけである。
まるでお雛さまである。
個々の大臣が、自分の所管の業務を、全部官僚以上に精通できないという事は理解できるが、政治を預けている国民の側に立てば、これでは本当は困る訳である。
本当は、所轄事項に精通した人に大臣を務めてもらわないことには、良い行政ということはありえないはずである。
それを派閥の都合で、ずぶの素人が大臣になるものであるから、大臣自身、自信もなければ、信念もないということになってしまう。
ただ大過なく任期を全うしたいという心理が動いてしまう。
これでは国民不在の政治であって、国民不在で、自民党の政治、自民党の自民党の為の政治という事になってしまう。
自民党がリクル−ト事件で力をなくした時に、社会党がしっかりしてほしかった。
ところがこの社会党というのは何時まで経っても幼稚性が抜け切らず、この激動の時代、価値観の多様化した時代、時代に全くマッチしていない。
ただただ、反自民だけである。
イギリス議会のシャドウ内閣の事をNHKは報道したら、すぐにその真似をしてシャドウ内閣を作るといっていたが、このシャドウ内閣というのは政権を取ることを前提にして考えられている事であって、社会党は政権を取るプログラムが存在しうるのかどうか疑問である。
政権を取って、それを維持していくためには、今の社会党の中では、相当な意識改革をしないことにはそれが出来ない。
まず最初に、政治改革において選挙制度をどうするのか、自民党の小選挙区比例代表制併用に変わる、実現可能な物を作らない事には駄目である。
福祉も結構である。
福祉をするには財源がいるが、その財源をどうするのか?
社会党は大企業を目の敵にしているが、大企業を締め付ければ、インフレを引き起こすし、経済が活力を失うという事も考えなければならない。
そういったものを全部考慮に入れて、自民党から社会党に政権が移った時に、それがすぐ稼働できる様にしておかなければならない。
これがシャドウ・キャビネットである。
ただ、テレビを見たから、言葉だけを並べて人を惑わすようなことをしては駄目である。
物を批判するということ
人を大勢抱えた組織では管理する側と、される側に分かれるのは仕方がない。
全部が管理者になれるわけではないので、又日本独特の合議制という事も、一見民主主義的のように見える。
けれども、これも人間の数に限度があって、物事が合議制で決まるという事は難しい事である。
こうした人間の生きざま、人生模様の中で、反対するという事は、一番安易な事である。
物事を決定して、遂行していくという事は実に煩雑で困難な事であるが、人の決めた事に、反対という事は実にイ−ジ−な事である。
道路一本作るにしても、橋を一つ架けるにしても、空港を作るにしても、長良川の河口堰にしても、選挙制度の改革でも、そこには最初、そういうものが欲しいという地元の要望が有ったはずである。
又、その地域なりの要求、要望が有ればこそ最初に計画が出来るのである。
計画の段階でも色々な試行錯誤があって、色々な審議が重ねられて、その計画を実行に移されたのであって、何の要求もない、要望もないところに計画が持ち上がる訳がない。
その段階でも、当然反対意見もあったけれども、大局的に見て、作った方がいいということで実行に移されてきていると思う。
そういう段階を経てきているのに、異を唱えることは実に簡単である。
どんな理由でも付けられる。
「風が吹けば桶屋が儲かる式」で、どんな理由でも、反対側の理由になりうる。
日本人の特異なところは、この反対運動には共感が得られ易いという事である。
賛成運動というのはありえない。
これはすべからく行政側の横暴、権力の横暴、住民無視、環境破壊という言葉で片付けられてしまう。
日本では判官贔屓という言葉があるが、昨今の国民の意識というのは、常に反判官贔屓である。
反対運動に首を突っ込むと何かいい事をしたような気分に浸っている。
地元の要望、要求がなければそんな計画は始めから存在し得ないし、大きなプロジェクトになれば、確かに地元という立場を越えて、プロジェクトというものが計画される場合もあるかもしれない。
そんな時は国全体の利益や利便というスケ−ルの大きな事もありうると思う。
こうした利害の調整というのは、本来、国会議員が地元の反対派の説得を行なうべきである。日本の国会議員で、それをした人はほとんどいないと思う。
田中角栄が総理大臣の時、上越新幹線を新潟に引いたという事があるが、これは少し度が過ぎて、地元への利益誘導という面が無きにしもあらずである。
日本の国会議員の中には、反対運動に面と向かって対抗する勇気のある政治家は一人もいないと云っていいと思う。
皆ガ皆、自分の票の獲得のみに神経をすり減らして、反対運動に加担する政治家はいても、推進派を堂々と名乗る政治家はいない。
反対という事は実に簡単な事である。誰でも出来る。何にでも反対することは出来る。
反対運動というのは何時でも、何処でも、誰でも簡単に出来る。
ところが、物を作り上げるという事は実に難しい。計画の段階からして難しい。
だからと云って、政府や行政のやる事は何でも協力せよというつもりはないが、反対する事のみが野党の政治責任ではないと思う。
一つの物事に対して反対と賛成の意見の有るのは正常な状態であり、反対一辺倒というのが特異な状態である。
党内においては反対賛成両方の意見が有って始めて民主的と云える状態ではないかと思う。
党の意志として党内の意見を一つにしてしまうことは常軌に逸した行為だと思う。
マスメデイアを考える
10月の中旬になると新聞週間だそうだ。
何時から何時までと、正確には知らないが、この時に新聞少年が表彰されるものらしい。
確かに、毎朝、毎朝、新聞を届けてくれる新聞少年には感謝しなければならない。
ところが最近は、新聞少年ならぬ新聞老年がメインになっているような気がしてならない。毎朝新聞を届けてくれる事については、少年だろうと老年だろうと、感謝の気持ちは変わるものではない。
最近はこの新聞配達という仕事も為り手がないときく。当然といえば当然かもしれない。
雨にも負けず、風にも負けず、寒い朝もあれば、暑い日中の夕刊の配達もあり、つらい仕事には違いない。
つらい仕事は若い人は敬遠したがるのも無理の無い事である。
若い人ばかりでなく誰にとっても嫌なことに変わりはない。
新聞というのは子供の頃からの習慣で、朝、家で読むものだと思っていたが、新聞の宅配というのは日本だけの事らしい。
外国では店頭売りで、宅配はしていないという事である。
これはやはり日本人のきめ細やかなサ−ビスの一つであろう。
最近ではこのきめ細やかなサ−ビスも今述べた理由で継続できるかどうか危ぶまれている。出来得ればこれからも継続してもらいたいと思うが、宅配する人がいないという事になれば何とも致し方ない。
この宅配のサ−ビスを軽減するために休刊日を増やすという事らしいが、休刊日を増やすについて、宅配を理由に上げるのは少し姑息過ぎるような気がしてならない。
新聞の業界の過当競争が激しくて、過労気味であるので、休刊日を増やしたいと素直に云った方が説得力がある。
それを宅配のせいにするのは少し根拠に乏しく説得力に欠けるような気がする。
確かに新聞業界においても、過当競争はすさまじいものがあるだろうと想像する。
アカイアカイ朝日新聞から、右がかった産経新聞まで、この小さな島国に全国紙が何紙有るのだろう。
そのどれもが同じようなニュ−ス・ソ−スから、同じような記事を流している。
その上新聞社の系列に放送局がある。
本来ならば、ラジオ・テレビの放送の業界と新聞の業界はライバル同志であるはずであるのに、日本では本来、ライバルであるべき媒体が、経営とか資金の面で上層部で繋がっている。
日米構造協議でも指摘されたように、系列企業である。
マスコミの媒体の中でもラジオ・テレビの放送と新聞では全く別の媒体である。
我々消費者の立場から見ればどちらも一長一短がある。
つまり媒体から得る情報を受け取る側で上手に取捨選択しなければならない。
それぞれにメリットとデメリットがあるので、自分の目的に合わせてニュ−ス・ソ−スを選択する必要がある。
日本のマス・メデイアというのは新聞と放送ばかりでなく、公告とか看板とか、それぞれに視覚に訴えるもの、聴覚に訴えるもの、様々有るが、日本のマス・メデイアの特徴は表向きの建前として、中立、思想的に政治的に中立を標榜している。
中立、中立と云いながら、どちらかというと左に傾いている。
これは必ずしも政府や権力を攻撃するというのではなく、新聞社なら編集者、放送局ならデイレクタ−辺りが左に片寄った思想感覚があるということである。
彼らが共産主義者という意味ではない。又、仮に共産党員であったとしても構わない。
中立を強調しなければそれでいい。
中立と云いながら左に傾いているので、嘘を云っているというだけで、思想信教の自由の日本だから、個人の思想を云々するつもりはない。
以前あるテレビの番組で、作曲家の三枝成彰が「心情的左翼」という言葉を使っていたが、まさしくマスコミの中枢にいる人達は、「心情的左翼」である。
政府に対する批判、権力に対する批判精神というものはまさしく「心情的左翼」である。
最近、NHKテレビでゾルゲ事件の事を詳しく報道していた。
このドイツ人のソ連スパイに情報を提供していたのが、尾崎秀美という朝日新聞の記者であった。
又、これもテレビを見ていて気が付いた事であるが、政治家によってたかってマイクを突き付けている記者の姿が映しだされると、尾崎秀美もああやって情報を取ってゾルゲに流していたのかと思いながら、画面を見ている。
尾崎秀美の場合は「心情的左翼」でなく、正真正銘の共産党員が、朝日新聞の腕章を巻いて情報収拾をしていたわけである。
ところが朝日新聞は思想的、政治的に中立を宣言しているかどうかは知らないが、政府とか権力を批判するという事は実に簡単な事である。
このことは前にも述べたが、政治だろうが、経済であろうが、批判することはなにも朝日新聞でなくても誰でもできる事である。
戦後の日本で、天皇陛下の悪口を云ったところで不敬罪で警察に追われることもないし、海部総理大臣をどれだけこき下ろしても、そのことで牢屋に入れられる事もない。
云うだけなら、つまり批判するという事はただであるし、新聞という紙面を借りて書きまくっても誰からも咎められない。
だから人を批判するという事は実に簡単な事である。
この事はプライバシ−の侵害とは又別の問題である。
だから日本の新聞を始めとして、マスコミは批判することは簡単に行なっているが、啓蒙するということはしていない。
正確に云うと、反対運動の方には啓蒙的な発言や記事はあふれている。
そして、反対意見の啓蒙には熱意を入れているが、その前にマスコミは無責任である。
人の噂も75日という諺の通りで、報道のフォロ−がない。
これには無理もない面もある。
次から次へと新しいニュイ−スがあるので、75日前の事など振り返っている暇が無いかもしれないが、それにしても報道機関というのは無責任である。
政府とか権力サイド、要するに為政者の方は反対されようが、抗議されようが、片一方にそれを望むニ−ズがある以上、推し進めなければならない。
マスコミは反対運動はニュ−スとして取り上げ、反対運動の方にコミットする記事を載せておいて、為政者の方の努力というものは全く無視して、まるで悪者扱いである。
だから世の中に反対運動は掃いて捨てるほど有るので、為政者の方としては反対運動の有るものは全部止めてしまえばいい。
長良川の河口堰の問題も、宍道湖の問題も、全部、反対運動の意見を聴いて、止めてしまえばいい。
常滑沖の中部新国際空港もおそらくこれから反対運動が起きてくると思うが、もし反対運動が大規模になったら中止してしまえばいい。
前にも述べたように、こうしたプロジェクトというのは、要望があるから計画されたのである、要望よりも反対が大きかったら止めるか中止すべきである。
マスコミというのは騒ぎが大きければ大きいほど金になるのである。
騒ぎの原因とか、因果関係は関係が無いのである。
どんなものでも騒ぎさえ有れば、それがニュ−スになり、取材する値打ちがあり、地元の利益とか、国民の要望というのは無関係である。
思想的に中立といいながら左に偏った偏見でものを見ておいて事実の報道だと主張する。
マスコミ界の有名な言葉に「犬が人を噛んでもニュ−スでないが、人が犬を噛めばニュ−スである」というのがあるが、これは真実である。
これを事実のみの客観的に報道すればニュ−スになる。
けれども日本の報道はこれに主観を入れる。
犬に噛みついた人間は精神に異常をきたしている、故にこれは政府の責任である、政治が悪いという報道になってしまう。
この格言の前の部分も本当は大事なのである。
犬が人に噛みついてもニュ−スにならないということは、普通の人が普通に、真面目に仕事をしていてもニュ−スにならないという事である。
けれども人間の生活、社会生活にとって大事なことは、こうしたニュ−スにならない事の連続が大事である。影の部分の努力である。
世の中の全ての反対闘争というのは、こうしたニュ−スにならないところで、黙々と作業をしている人達に棹差す行為である。
ある計画が遂行されつつあるところに、ある一部の集団の損得勘定で、途中から横槍を入れるのが、全ての反対闘争である。
確かに国民的要望事項であっても、地元の人達が被害を被るようなプロジェクトもあると思う。
しかし、それにはそれなりの保障というものがあるはずである。
かってのソ連のように、強制的に移転させるような事は日本では、まずないと想像する。
反対闘争の根源にあるのは我儘だけである。俗にゴネ得と云うものである。
環境を持ち出して反対運動するなどということは、詭弁以外の何物でもない。
環境の悪化なんて事は出来上がってみないことには分からない。
悪化する可能性は有っても、断定は出来ない。
又、仮に悪化するとして、プロジェクトを中止した場合、もともと有った地元なり行政レベルの要望はどう解決するのか?
マスコミは反対運動が盛り上がったことをニュ−スにして、やれ環境が悪化するなど、しないだのと、当局側と反対運動側の喧嘩を眺め、なおかつ煽りたてて、金儲けをしているわけである。
そして結果に対しては無責任である。
その中でもマス・メデイアとしては新聞よりもテレビの映像の方が、ニュ−スを受け取る側としては有利である。
活字を目で追うという事よりも、映像を見る方がはるかに理解度が早くて容易である。
又、映像で映っている限りは真実である。
新聞の場合だと始めから、「これは何処までが真実か?」という事を疑って掛からなければならない。
最初から誤差の幅を考えなければならないが、映像だと画面そのものは真実である。
けれどもこの映像というのも、本当は疑わなければならない面もある。
湾岸戦争の時イラク側の発表した画面は全部ヤラセであったということを後から知ったが、ああいうヤラセという事もあるので、画面を真実だと思い込むことは危険である。
テレビにしろ、新聞にしろ、真実をモット−としていると公言しており、又、生のニュ−スということを強調しているが、編集という作業を経て流れてくる以上、生のニュ−スという事はありえないし、真実という事も疑って掛からなければならない。
又、真実だからといって、それがニュ−スとして適切であるかどうかという問題も議論の別れるところである。
殺人現場の血の流れたままのシ−ンをそのまま流すべきかどうかが議論になるけれども、尤もな事である。
真実ならば何でもいいかという点も難しいところである。
又、マスコミが世論を形成しているという事も多々有るが、これも別の難しさがある。
世論というのはどうしてもマスコミに踊らされやすい、テレビや新聞がこれでもか、これでもかと繰り返し波状攻撃をかけてくると、一般市民はそういうものかなあと思い込むようになる。
そうなればマスコミの情報操作の勝利である。
60年代の安保闘争の時、又その後の学園紛争の時でも、つい2、3年前の消費税の問題の時でも、かなりマスコミの踊らされた部分がある。
マスコミは常に反体制側につく傾向がある。
けれども、反体制なら国益と一致するかといえば、必ずしもそうとは言い切れない。
今まで述べてきたように、反体制として当局側を批判することは、バカでもチョンでも出来る、イ−ジ−な行為である。
マスコミの報道する事の裏を我々は考えなければならない。
60年安保の時のマスコミの報道を見ると、今頃は核戦争になって、地球は破滅してしまっている事になっている。けれども現実はそうなっていない。
ここが、マスコミは無責任だといわれる所以である。
マスコミの報ずるところには一抹の真実は有る。
100%嘘では虚偽の報道になるので、真実も少しは有る。
その真実の部分と虚偽の部分、情報操作の部分を見分ける必要がある。
これは新聞もテレビも同じである。
要は、新聞でもテレビでも、それを鵜呑みにするのではなく、自分で考えるという作業が必要である。
マスコミの云っていることを鵜呑みにする事ほど危険な事はない。
そういう意味で新聞なら三面記事が一番罪が軽い。これは安心して読むことが出来る。
一番用心しなければならないのは社説とコラムである。
ここは新聞社としての思想・信条がモロに現われているので、この欄を読む時は気持ちを構えて読まなければならない。
逆にテレビは三面記事とか社説という区別が無いので、何処で身構えていいのか見当がつかない。それだけに注意が肝心である。