あとがき

 

好奇心を満たすためには何でもやってみなければならない。それが大事である。

今まで人の書いたものを読んでいたが、世の中の事について自分がどう思っているか、どう感じているかという事を、自分で書いてみない事には、自分の好奇心を満たすことが出来ないと思った。

先回からの2ヵ月間に色々な事が起こって。

正直云って、ついていくことが出来ないほどの激流であった。

けれども、物事というのは少し間を置いた方がはっきり見える。

あまり間近だと全貌が掴みにくい面がある。

地球上にはいくつの言語が有るか知らないけれど、自分が一ヶ国語しか、読み書き出来ないという事は、自分の好奇心を満たすのに非常に不便な事である。

人が何を考えているのかという時、相手が日本人の場合はその人の文章を読めば分かるが、これが相手が外国人の場合、まさにお手上げである。

外国人がどう考え、どう思っているのかという点のなると、自分の腑甲斐なさに切歯扼腕する。

日本人というのは単一民族と云われ、島国に閉じこめられているので、日本全体がそういう状況だろうと思う。

仮に英語が話せても、日本人の感覚というのは、そう簡単には拭いされないと思う。

日本人の外国語というのはビジネスに直結しているので、文化を探求するという事までには至っていない。

仮に日常会話が出来たとしても、その場で生活がスム−スに行なえるという意味で、その事のみで、文化に抵触するまでには至っていないと思う。

外国の文化を知ろうと思えば、何としても好奇心を持っていない事にはそういう気持ちにならないと思う。

外国語が読み書きできるという事も、それだけでは相手国に好奇心を持っているとは限らない。

そういう意味では、生活の為という事が出来る。

生活の為の外国語では、文化まで探求する心のゆとりがない。

私自身そういう意味で、生活の為すら外国語が出来ないということが実に残念である。

けれども、この悔しさは生涯背負っていかなければならない。

今から挑戦するには遅すぎる、人生が黄昏てきてからではいかにも遅すぎる。

しかし、世の中には奇特な人がいるもので、伊能忠敬は今の私の年代から測量を勉強して、日本全国を測量して地図を作ったというのだから、今からでも遅くはないと思いながらも、基礎の勉強には気持ちが向かず、イ−ジ−な方に流されている。

所詮はただの人である。

 

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