教育について

 

「学ぶ」ということ

 

人が「学ぶ」という言葉から受けるイメ−ジというのはやはり学校教育であろうと思う。

まあ大学生にでもなれば、自分の意志で、好きな学科を、自らの意志で選択して「学ぶ」ということもあるかもしれないが、それまでの学校教育というのはだれしも面白くない事の押しつけであったと思う。

けれども、これが職業教育となると、がらりと様子が変わってくる。

私は昭和39年から44年までの短い期間であったけれども航空自衛隊に在職したことがある。

ここでの職業教育というのは学校教育とは全く別の物があった。

当時はまだ税金泥棒という云い方が世間には残っていたが、その中で行なわれていた職業教育というのは実に素晴らしく、実用に即したものであった。

航空機いうものを効率的に運用するための教育とはいえ、当時のハイテクを如何に教え込むのかという点で、実に様々な創意と工夫が行なわれていた。

ここにはそれまでの学校教育とは全く異質の教育があり、私はこの教育で随分と刺激を受け、自分自身を改造することが出来た。

当時の航空自衛隊ではまだ米軍の教育、米軍が兵隊を教育するシステムが残っており、教え方が実に合理的でスマ−トであった。

文部省が管轄する学校教育とは違って、仕事をするに必要な技能、技術を習得させるという、職務上の実務のための教育という面で、学校教育とは違っている点は当然としても、人に物を教えるという点では同じであるはずである。

ここで違っているのは「学ぶ側」に「学ぼう」という気持ちがある点である。

学校教育でも教育を受ける側は教育を受ける気、学ぶ気が有るのは当然であるが、皆が皆学ぶ気が有るとは限らない。

けれども、職業教育というのは、学ばなければ仕事上の遅れを取るという点で、教育を受ける側に少なからず「学ば」なければならないという動機がある。

この動機の有るか無いかが、学校教育と職業教育の違いであろう。

学校教育においても本当は「学ぶ」という動機付けが欲しいところであるが、世間一般はどうもそうなっていない。

何のために学校にきているのか分からない状態があると聞く。

この航空自衛隊を離れた以降も、なんとかして好奇心を満たしたいという動機そのものは私自身について回った。

その後結婚して、子供をさづかって見ると、やはり自分勝手なことは出来なくなってしまった。

チャレンジしてみたいという動機が沸いても、家庭の経済のことを考えるとストレ−トに飛び込めないという状態が続いたが、人間50の坂を越えると、色々と知恵がついて、最近は金を使わず好奇心を満たすことを自然に習得した。

というのも私は元々本が好きで、若い頃から乱読していた。

独身の時は本を購入することが出来たけれども、妻子を抱えると本を買う金が生活費に回ってしまった。

それからはもっぱら図書館の利用である。

自治体においても最近は図書館の充実を図ってくれたので、この図書館というのを最大限利用し、随分世話になった。

図書館の良いところは蔵書が家の中に蓄まらないということだ。

図書館の利用が10年ぐらい続いたが、最後は自分の蔵書、独身時代に購入して埃を被っていた蔵書を、図書館に恩返しに寄付した程である。それほど図書館には世話になった。

しかし、私自身、図書館も随分利用させてもらったが、この図書館に高級車を乗り付けて本を借りにくる人をみると、これは一体どういうことかと頭をひねりたくなる。

本を買う金が無くても高級車を買う金は有るのかと、一昔前なら、図書館で本を借りるなんて事は貧乏人のやることであったけれども、今では金持ちが本を借りにくる時代である。

世の中変われば変わるものである。

私のような本を買う金もないものが、図書館を利用するのなら納得できるが、高級車を乗り回す人が本を借りにくるなんて事はどうにも納得できない。けれどもこれが現実の姿である。

読書というのはどうも受け身な行為だなあと思っていたところ、市役所の公報誌で市民講座で油絵の講座があるということを知った。

これなら本を借りるより能動的だと思って、文字どおりチャレンジした。

何事にもチャレンジということはそれなりに面白いということは航空自衛隊の時代に習得していた。

それでこの油絵にも挑戦したことはいいが、やはり始めの内は皆、初心者ばかりなので良かったが、そのうち回が進むにしたがって各人に差が出てくると競争心に煽られて、逆にやっかみと嫉妬心が出てきて、最後には自分の心に負けてしまって挫折してしまった。

自分の心と戦うということは未知の物にチャレンジするよりもよっぽど難しい。

自分の心の戦いに勝って平静でいられるということは、並み大抵のことではないと云うことを悟った。

その後は大学の公開講座に出るようになった。

これは試験というものが無いので誠に都合がいい。

仕事の関係上、毎回出席するわけには行かないが、それでも出席しただけの満足感が味わえる。

その授業が身につくとかつかないを超越して授業が聞けるので、純粋に好奇心を満たすことが出来る。

しかし、私の人生の中で自分から積極的に学んだ物といえば、今まで述べたものは全てがそうであるが、その中でも特にと云えばスキ−である。

スキ−に関して云えば、これこそ若き青春時代に情熱を傾けて、積極的に学ぼうとしたものである。

スキ−にのめり込んだ動機というのは実に単純で、30数年前、まだ高校を出たてのころ、以前からスキ−というものをやってみたいと思っていたので、当時のスキ−・ツア−に参加したところ、こちらはスキ−なるものを初めて足に付けて、雪原に立っているのもやっとという時、スロ−プの高いところから女性のスキ−ヤ−が颯爽と滑り下りてきたのを見た。

この時のシャック。私にとっては一種のカルチャ−・ショックであった。

これを見た時は好奇心を通り越して、ある種の敵愾心であった。

それ以来というもの機会有るたびにスキ−に心掛けたが、30年前の名古屋といえば、そう滅多矢鱈とスキ−場に通える状況ではなかった。

それで航空自衛隊に入ったときには雪の有る任地を選択して、そして航空自衛隊にいる間は運良くそのチャンスに恵まれて、雪の有る任地に赴任することが出来た。

それでスキ−さんまいに耽ったが、その任地を離れなければならなかったときには本当に残念であった。

あと1シ−ズンか2シ−ズンあれば自分でも納得する域にまで達する事が出来たと思うけれども、その途中で任地を離れなければならなかったことは本当に残念であった。

それで腕前ならぬ足前には少なからず不完全燃焼の部分が残っていたが、その後家庭を持つと、全てをなげうってスキ−にというわけにも行かず、それ以降は家族ぐるみのファミリ−・スキ−となった。

ファミリ−・スキ−は、これはこれで又独身の時のがむしゃらなものと違う別の楽しみがあった。

私自身の経年変化に伴って、若い時のような無理も効かなくなってきたので、これはこれで良かったけれども、自分の人生においてこれほど打ち込めたものもスキ−以外になかったし、又その動機が実に単純であった事に自分でも不思議だと思っている。

それほどあの時見たスロ−プを滑り下りる女性スキ−ヤ−というものが大きなインパクトになっていようとは自分でも不思議であった。

あの時のショックは本当に好奇心を通り越して敵愾心であった。

 

             好奇心について

 

あのような心の衝撃というものはその後に人生においては存在しなかった。

けれども、並みの好奇心というものは50年間の人生に平均して存在し続けていたようである。

だが、誰の人生でもそうでしょうが、好奇心があるからといって、そのままストレ−トにのめり込むということは出来ない。

やはりその最大のポイントは、突き詰めるとお金のという事になる。

金の切れ目が好奇心の切れ目となる。

特に私の場合はそういうことが云える。

けれども世間の普通の人ならこれが当然ではないかと思う。

好奇心の趣くままのめりこめる人は幸せな人である。

普通の人がそんなことをしていたら身の破滅につながる。

やはりどこかで折り合わなければならない。そのバランスが大事だと思う。

人の人生においては好奇心という物も段々と変化するものだと思う。

人生の経年変化と供に、その時代にあった好奇心が沸き、沸いては消えていく物だろうと思う。

それが人間の自然な、精神の発達だろうと思う。

その一つ一つにのめり込んでいては、その人の人生は途中で逸脱してしまうのではないかと思う。

やはり、単なる好奇心と呼ばれている間は本業、乃至は生業に対するバイパス的な物であって、自分の好奇心で、それが職業として成り立っている人は幸せな人であるが、そんな人は広い世間にも極稀な存在であろうと思う。

並みの人間ならば、好奇心は好奇心で、生業は又別に存在するものと思う。

ただ、人の人生の中でこの好奇心が、人の生業を左右するということは多々有ろうかと思う。人の生涯の中では次から次へと好奇心が沸き、沸いては消えていくと思うが、この好奇心が沸いた時というのは大事にしなければならないと思う。

この好奇心というのは、3才頃から芽生えて、死ぬまで沸き続けるはずである。

つまり人生の大部分を通じて存在し続けるわけである。

だから人生が黄昏てくると、この好奇心というのは、泉が枯渇するように沸かなくなる。

こうなると人は生ける屍のように無気力になってしまう。

幼児の好奇心、子供の好奇心というのは大事にしなければならないのは当然であるが、熟年の好奇心も本当は大事にしなければならない。

特にこれからは長寿社会になるといわれているので、熟年と云われるような人はもっともっと好奇心を大事にしなければならないと思う。

子供の好奇心というのは成長の過程で未知との遭遇であるが。熟年の好奇心というのは未知の選択である。

熟年になっても自分の知らないことは沢山存在するわけであり、それを知るということは生きることの喜びである。

この「知る喜び」というのは、人がいくら経年変化しても変わることのない真実だと思う。知ることの喜びというのは幼児や、人生経験の浅い若い時代には案外気付かないものである。それが解るようになるのはやはり歳を経て、人生の喜怒哀楽を十分に味わった後でない事には本当の「知る喜び」というものが理解できないのではないかと思う。

 

           生涯教育ということ

 

今、人生50にして大学の公開講座に出席している。

如何せん仕事を抱えているので全部皆勤するというわけには行かない。

半分出席できればいいと思っているが、それでも行かないよりは行った方がいいと思っている。

まあ、今更公開講座に出席しても何の得にもならないというのも事実である。

けれども、そもそも、こういうものが本当の学問ではないかと思う。

資格を取るための勉強とか、試験の為の勉強というのは、あまりにも功利的なもので、これはもう職業教育である。

職業教育という事になれば、先に述べた航空自衛隊の教育の方がより進んでいると思う。

けれども、今の若い世代というのは、学問と職業教育が違うという、この当たり前のことを認識していない。

又、教育界においてもおそらくはその辺の認識をはっきりとは持っていないと思う。

職業教育と学問とは自ずから別の物である。

熟年の好奇心を満たすには大学の公開講座というのは誠に都合がいいものである。

私の場合、あらゆるマス・メデイアからこのような公開講座に参加できるチャンスを狙っているが、やはり、経年変化してきたとは云うものの、後何年か現役が残っている限り、出席率100%というわけには行かない。

どの講座にも止むを得ず出席できないということがある。

けれども、試験が有るという訳でもないので、実に淡々とした気持ち講義を拝聴することが出来る。 

こういう積極性で以て若い時に勉強しておけば良かったと反省することしきりである。

けれども、大方の人がそうであったと思うが、若い時は先生をバカにして、先生の目を盗んでは悪戯をした自分が悔やまれてならない。

公開講座に出席してみると先生の方が私達、生徒より若いことがある。

それと講義の内容によっては先生の言っていることより我々の方がよく知っていることもある。

先生が本で読んだ知識を披露しているのに、我々は体験して知っていることがある。

先生もきっと教えにくいんではないかと思うが、人生に闊達した人ばかりなので、先生に意地悪な質問する人もいない。そこが熟年の効用の長である。

こうした大学の公開講座も、昨今の日本のように長寿社会になってくると、生涯教育の一環として、盛んになってきたが、これは本当に良い傾向だと思う。

別に年寄り向きという訳でもないだろうが、夜、大学まで来て講義を受けれる立場というものは、現役のサラリ−マンには大きな制約がある。

いきおい参加者は年金生活者と主婦を中心とする女性ということになる。

30代40代の働き盛りの男性というのは、どうしても仕事の関係で参加する機会が限られてくる。私自身もそうである。

だから、必然的に長期的なものは駄目で、短期間であってもその内の2、3回は出席できないということになるが、それでも1回でも2回でも参加しただけ得、という考えで参加している。

その点、年金生活者は恵まれている。

毎回必ず出席できるし、翌日は会社にいかなくてもいいので実に恵まれている。

このように、長寿社会になると生涯教育ということも本当に大事なことと思うが、それを反映して各自治体や大学もそれぞれに、そういう機会を作る傾向になってきており、これは素晴らしい傾向である。

けれども、私に云わせればまだまだ不満がある。

この不満というのは私にとってはこう有ってほしいと思う願望には違いないが、ある種の我儘かもしれない。

というのは、今の公開講座というのはテ−マを主催者側が決める。

ここの部分で、テ−マが自分の好奇心とマッチしなければ受講する気になれない。

受講者の方が受け身の形になっている。

この部分を受講者の側の好奇心を満たす方法、つまり受講者の方がテ−マを選択するという制度があればもっと素晴らしいと思う。

つまり、大学で行なっている授業に自由に参加できる、聴講することが出来ないのかということである。

まあ、これは無理な相談だろうとは思うが、大学には聴講生の制度もあるという反論もあろう。基礎知識のバラバラの者に教えるという難しさもあるであろう。

実現は不可能であろうとは思う。

けれども、大学というものは秘密ということが無いのが原則であるので、理論的には可能だろうけれども、実務の面では難しいことは理解できる。

昔から開かれた大学ということはよく云われているが、公開講座を行なうという事も、開かれた内に入るのだろうけれど、国立大学というのは、もっともっと開かれて然るべきだと思う。

大学の使命というのは人材の養成と学術研究の両面だろうと思う。

この人材の養成という面が肥大化してしまって、就職予備校になり、学術研究の面では象牙の塔になってしまっている。

これでは両面とも大学の使命を喪失しているといってもいいのではないかと思う。

人材の養成が就職予備校になってしまっては、あまりにも大衆に迎合しすぎているのでがはなかろうか? 

又、象牙の塔になっているということは国民大衆をバカにしていると云うことではなかろうか?

民間の大学、所謂、私立大学というのはある種の企業である。

パチンコ屋やサラ金と同じで、これは儲けが第一である。収益至上主義である。

けれども、日本はこの私立大学にも国立大学と同じように教育機関としての位置付けをしている。ここに問題がある。

日本の私立大学というのは民間企業である。

サ−ビス業として位置付けるべきである。

と云うことは、私学補助を打切ると同時に課税をするわけである。

そしてサ−ビス業と位置付ける事により文部省の管轄から切り離すべきである。

今までは学校と名がつけば全て文部省が取り仕切ろうする傾向があったが、これを取り止めるのである。

国立大学の場合、これらは全て税金で賄われている。

国が集めた税金で、人材の養成が行なわれ、学術研究が行なわれているわけである、ということは、成果は国民に還元されて然るべきである。

人材養成という部分は、卒業生が各界で活躍するという形で国民に還元されているが、学術研究の方は、広い意味では目に見えない形で還元されているとは思うが、逆に云うと目に見えない分、象牙の塔の中に埋没されているかもしれない。

その部分は我々国民の側から見ると全く分からない。

けれども、大学が公開講座を開いてくれれば、これは明らかに開かれているなあということが実感出来る。

公開講座の内容の如何を問わず、その期間の長短を問わず、大学が開かれているという実感が伴う。

そういう意味でもっともっと大学が開かれるべきである。

それでこそ納税者が納得く出来るということである。

 

          国としての人材の養成

 

今の大学を考える場合、開かれているかどうかということよりも、もっと大事なことは人材の養成という面であろうと思う。

これは大学だけの問題ではなく、同時に社会問題でもある。

大学の方針とは別に社会も、現実に昨今の学生の在り方を助長している。

第1、一般社会では、つまり民間企業では大学生の学力というものをあまり信用していない。だから採用した学生を、又企業内で教育している有様である。

というのは、日本の大企業はその大部分が終身雇用であるので、22〜3で入社してきた人間というのは、その後30年以上その企業で勤めるという背景がある。

その30年間、定年が延長されるこれからの社会では、もっと勤続は長くなるので、その内の一年ぐらいは会社で教育しても十分見合うものがあるという考え方によるものと思われる。又、日本の大学は入学した時点でかなり正確にふるいに掛けられて、知的水準では均一になっている。

だけれども、これはスタ−トの時に皆一緒のレベルに並んでいるということで、その後の4年間の各人の努力というものは何ら加味されていない。

しかし、4年前にはある一定の水準の知的レベルにいたということは紛れもない事実なので、日本の企業はこの4年前の状況を考えているわけである。

日本の国立大学は、この入学の時点で東京大学を頂点とするピラミッドが出来ていることは紛れもない事実である。

入学するには東京大学が一番困難ということは紛れもない事実である。

以前は学力テスト、今はセンタ−テストと呼んでいるが、この上位者でなければとても無理であった。

このテストでトップから東京大学に入れて、テストの点数が下がるに従って地方の大学になっていくというのが現状である。

だから東京大学というのは紛れもなく日本で一番優秀な成績を取ったものが集合しているということも事実である。

ここに人々が陥りやすい錯覚がある。

東京大学に入るような人間は全てオ−ルマイテイ−だと思い込んでいる。

ところが、人生というのは学校の成績だけで決まるような単純なものではない。

生き馬の目を抜くという言葉があるが、世の中というのは昔も今も生き馬の目を抜くようなものである。

学校の成績だけに左右されるものではないが、それでもこれは有利な条件の一つであるということにも変わりがない。

それで大学に入学してきた時点の新入生というものは、学業の面では全て粒揃いである。

大学による格差は有るとしても、各大学においては粒が揃っている。

しかし、これも卒業の時点ではかなり不揃いになっていると思うが、それでも企業が有名大学から人を採用したいというのは、入学したという実績を買っているのだと思う。

入学したという実績の中に、その人の能力というものというものの存在価値があり、4年間の経緯というものは問題にしていない。

だから入社してから社員教育なり、各種研修会なりで、再教育しているのだと思う。

学校の教育と実務が掛け離れているのはある面で致し方ない面がある。

航空自衛隊のような特殊な団体が組織内において特殊な教育をしたとしても、それがすぐ実戦に使えるかというと、必ずしもそうではない。

やはり教育を終えてしばらくの間は一人前になれない。

ただし、順応するに要する期間は極めて短くするということは出来るが、万能ではない。

国立大学の使命として、人材の養成という事は、この4年という年月の間に、学問と云うものを叩き込む事が本当だろうと思う。

学問の全部を叩き込むことは無理としても、学問とは何ぞや、人生とは何ゾや、という事を教え、自分の命題を解決すべき方法を指導するべきである。

又、一定の知識や教養も当然そこに入ってくるはずである。

少なくとも「学ぶ」気持ちと云うものを、持つぐらいのことは教え込むべきである。

しかし、それが現実にはレジャ−・ランド化している。

又、学生の方も自分自身、何を「学ぶ」か解らず、今迄の受験勉強の反動で、入学したとたん、勉強する意義も、意味も見失ってしまっている。

これは言葉や文章で表現すると、大した問題でないように見えるが、これは国家的な損失になっている筈である。

何も大学は朝から晩まで勉強させよ、などと極端なことを言うつもりはないが、学生が大学に入る、入学するということだけで、目的を失ってしまうということは、由々しき問題である。

自分の命題を解決するために大学にいくというのなら、これはスタンダ−ドな精神、若者の普遍的な、通常の精神構造である。

ところが、入学したとたん目的が無くなってしまうというのは、若者の精神構造としては異常である。

人生、18〜20才で燃え尽き症候群になってしまっては生きている意味が喪失してしまうに違いない。

其の事に日本の国民の全部が気が付いていない。

教育界も産業界もこの無駄には気が付いていない。

これは教育界の問題ではなく、一般の社会問題でもある。

 

          人間性に根付いた教育

 

日本の民主主義は大筋においては結果の平等を目指しているのに対し、教育界のみはスタ−トの平等を取る民主主義を採用している。

だから大学に入学してしまえば卒業は保障されている。

又、企業においても卒業の成績よりも、大学の知名度に左右されている。

大学に入学した者が、全て同じように卒業できるという事は実に不思議な、日本的な現象である。

これは幼稚園から大学まで、教育と名がつけば当然なことであるが、人間には個人差がある。これは明白なことである。

入学したものが4年経てば全く同じ様に卒業できるという事は、人間の個性というものを全く無視しているということである。

10人の人間に物を教えるのに、全員が同じテンポで理解していくということはありえない。けれども、今の大学、いや、日本の公共の教育というのは、ほとんどこの人間の個性というもの、すなわち、人間としての自然性というものを無視している。

別の言葉で云えば人間性を無視しているということである。

これは幼稚園から大学まで、日本の教育というのは人間性無視の教育である。

大学を卒業して企業に入ると、同期に入社した者でも出世の階段を昇るについて、そのスピ−ドに優劣がついてくる。

早い者と遅い者があらわれる。人間の社会ではこれが当然な在り方で、自然の姿である。

大学内のように同期に入学したものがそろって卒業するという事の方が不自然である。

人間の集団には飲込みの早い者や遅い者、又、学科によっても得手、不得手が有るのが当然である。

それを全く無視した教育というものは不自然な教育といわなければならないし、そういう学校制度の在り方というものは本当の教育を目指したものではないと思う。

少なくとも大学の教育というのは年寄りや主婦相手の公開講座とは訳が違うのである。

通常に講義をしたら理解しているかどうかチェックするという事は当然で、理解できていなければ再度、講義を受けて、なおかつミニマムの答えが出来ないのなら、それはその講座を受けた事にならないというのは当然なことである。

この問題については大学というものから離れ、教育一般についても同じ事が云えると思う。

日本の教育制度というものは飛び級も落第も認めていないが、これは、今述べたように、人間の自然な在り方というものを無視した制度である。

人間の頭脳というものは均一的なものではないはずである。

10人10色と云われる通り、各人各様に違っているはずである。

この個人の能力を全く無視した教育制度というものは再検討を要すると思う。

日本の教育制度が人間の個人差を無視したものであるという不合理は、頭の良い人からの反逆があっていいと思う。

要するに、飛び級をする権利がある、と云う主張が出てきていいと思う。

「落第」というのは不名誉なイメ−ジが日本では付きまとっているが、このイメ−ジの方が本当は間違っている。

「落第」というのは物の理解が遅いという事であって、社会的に悪い事をしたという問題とは、全く別の次元の問題である。

「落第」よりも校則違反の方がよほど人間性に欠陥があり、反社会的な行為である。

日本人はこの校則違反に対しては比較的寛大であるが、落第という事には非常に厳しい評価をする。

この辺が日本人の教育に対する認識の特殊なところである。

日本人が民主主義というものをはき違えている証拠である。

学生なり、生徒が、校則を守る守らないという事は、民主主義を論ずる以前の問題である。しかし、人間的に未完成な若い人にとっては、その辺の認識がまだ不十分で、それを教えること自体が教育の一環である。

校則違反をするということは人間としての原理原則に反することであり、人間性に関わる問題であるにも関わらず、日本の今の父兄というのはその点を忘れている。

この校則違反という事は、規則を遵守するという事も勿論大事であるが、規則違反をした時には、その罰則に、潔く甘んじなければならない、という精神的な事の方が、本当は大事である。

日本人のデモクラシ−は規則の罰則というものを甘く見がちである。

罰則というものの認識が不足している。

ここで面白い事は、先に述べた飛び級と落第の関係について、落第というものが罰則である、という認識が国民一般に浸透している事である。

飛び級というのは教えられた事をよく記憶している、頭がいい、記憶力がいいという認識によりこれを一種の報奨と捉え、その反対に落第の方はよく覚えなかった、つまり頭が悪いという事に対する罰則という捉え方に陥っている。

教育というものを見るのに、人間の個性というものを無視するが故の、冷静さを欠いた認識が日本全体に敷衍している。

要するに、日本国民一般に教育というものを冷静に見るという認識がなく、ただ単に有名大学に入る事のみを、教育と思っている証拠である。

その点、この校則違反は、民主主義の根源に関わるもので、教育の問題とは次元の違うものであるということを、理解する人が非常に少ない所以である。

校則違反というのは、直接、社会生活に関わり合う問題で、違反したら素直に罰則に従うということも含めて教育の一環であるのに、それを父兄の方で理解しようとしない。

父兄の方で民主主義を否定するような考え方に陥っている。

校則違反の問題は大学ではあまり問題にならない。

一番問題が顕著なのは、高校生、高等学校においてである。

高校生ともなればもう民主主義の基本原則として、規則の遵守と罰則の関係は十分理解できるし、これから社会人として巣立つ時期でもあり、一番叩き込んでおくべき重要な項目であるはずである。 

この場合、常に注目されるのが、喫煙と、飲酒である。

高校生ぐらいになればこういうものに関心を持ち、好奇心が刺激されるのは、健全な自然の成り行きである。

一度や二度は面白半分にやってみたいという気持ちになるのは当然のことである。

これは人間の成長の過程における自然な成り行きである。

けれども、人に見つかるような所で、それを試みるということは、すでにその人間の配慮が足りない、思慮分別に欠けた人間であると云うことである。

場所、時間、タイミングというものの関係が理解できない、という事は、この時点で人間−−−その年代としての−−−として完成された精神構造に達していないということである。こうした人間は、その後の人生においても同じ轍を踏む可能性があると見做されても致し方ない。

こうした配慮に欠けた生徒がその違反行為を先生に見つかる。

これは当然罰則に服さなければならない。

喫煙や、飲酒の罰則では父兄も比較的納得しているようであるが、これが他の細かい規則になってくると、父兄もなかなか納得しようとはしない。

これは父兄の方が一方的に思い上がっており、民主主義を理解していない証拠である。

そういう人が逆に校則の違法性の方を問題にして裁判をしたりしている。

全くばかげた話である。

高等学校においては校則が気に入らなければ、学校を辞めればいいだけのことである。

けれども、教育委員会というのも実に弱腰で、こういう父兄に対して正面から反論することをしない。断固拒否することをしない。

「校則が気に入らなければ学校を辞めよ」と頑固たる態度に出ない。

ここに日本の教育が歪んでしまった原因がある。

民主主義というのは権利と義務からなっているが、権利の方は常に声高に主張するが、義務の方は出来れば逃げようとする。

校則に違反すれば処罰に甘んじる義務があるのに、それを忘れてしまっている。

それでいて、教育を受ける権利があると主張する。

この教育を受ける権利というには校則をきちんと遵守する人にはその権利があるのであって、校則を守らない人まで同じような権利があるのではない。

こういう事は高校の入学の際に、にぎにぎしく伝えられるものではないが、大方の高校では生徒手帳かなんかに明記してあるのではないかと思う。

こうした信念を持った教育行政というのは各教育委員会にも責任がある。

教育委員会が弱腰で常に父兄に迎合しようとするので、断固とした対応できていない。

 

             教育行政の拙さ

 

昨年だったと思うが、校門の扉に挟まれて死亡した女子高校生のことが新聞で報道されたが、全くバカげた話である。

朝遅刻してくる生徒も問題であるが、そんな些細な事に対処せざるをえない学校側もある意味では気の毒である。

始業時間というものがあるにもかかわらず、遅刻してくるということは、この一事で以て社会性が欠如しているという事である。

この社会性の欠如というものを是正しようとすれば厳しい罰則しかない。

生産性を重視する企業では、こんな人間には歴然とした評価が下され、その人の収入とか成績に反映される。

ところが教育界では本人の行為をフイ−ド・バックさせるところがない。

遅刻したから、いきなり退学というわけにもいかず、そうかといって始業時間を守らないということは、社会生活上好ましくない風潮である。

一回や二回なら大目に見るということも出来ても、多数が常習で行なうとなれば、これはもう民主主義に逆行する行為である。

先生が力一杯扉を閉める気持ちも分かるような気がする。

その結果として一人の生徒が犠牲になったことは気の毒とは思うが、その女生徒が被害者ということは当然としても、先生の方もある意味では被害者というべきかもしれない。

この事件には日本の教育界(特に高校の)のあらゆる問題が凝縮されているような気がする。教育ということは学校だけの問題ではない。

国民一人一人の民主主義に根ざした考え方によって、大きく揺れ動くものだろうと思う。

今の民主教育というものはマッカアサ−の教育改革によって、それ以前の富国強兵の国策的教育から脱皮したものであったはずである。

ところが、日本的民主主義というのは教育界というものを、真の教育とは程遠いものに仕上げてしまった。

始めの方で述べたスタ−トの平等と結果の平等の問題も、人間の個性を無視した均一的な教育も、全て教育というものの本質を知らないか、履き違えているが故の結果だと思う。

教育という事は、その国の基幹をなす人々の問題であるので、徒や疎かには扱えないことである。

けれども我々は常日頃そういう事にあまり関心を払わない。

大学の入試に何処の高校が何人は入ったとか、校門の扉に挟まれて死んだという特異な事はマスコミが報道するので、時の話題にはなるが、今後の日本の将来を見据えた展望とか、人材の育成とかいう前向きなポ−ズというものはない。

一部、自称知識人と称する人々が、校則の問題を取り上げることはあっても、それは成人していない、思慮分別に欠けた子供に迎合する事とも知らず、本人が民主主義の何たるかを知らずして、管理教育云々と言ってみても埒が明かない。

この管理教育について云ってみれば、学校で生徒を管理しなければならない程、家庭での教育が崩壊しているということを忘れている。

家庭での教育というと、言葉が大げさだが、要するに、子供というのは親のコピ−である。

学校が生徒を管理するということは親の方が管理されているということである。

頭髪の問題にしろ、制服の問題にしろ、どこの家庭の親でも「学校の云うことを聞け!、嫌なら止めよ!」と子供に信念と自信を持って教えておけば、こんな管理教育にはならなかったはずである。

ところが親の方が、自分の子供に迎合して、校則に文句をつける時代である。

これでは管理教育にならざるをえない。

人類の誕生以来、人間においては、親子の関係は普遍的であり、子は親のコピ−である。

親以上に拡大したコピ−もあれば、縮小したコピ−もある。

けれども、コピ−である以上、親の考え方に何らかの影響を受けついだまま伝承されている。この伝承される物の中に、遺伝的なものがあるのは当然であるが、その他に後天的なものもある。

この伝承される因子の中に反社会的なものや、いい加減な物の考え方があるとすれば、それもそのまま子供に伝承されてしまう。

今の若い人は駄目だという、老人の嘆きは洋の東西を問わず、古今東西同じである。

が、今の教育界が芳しくないというのは取りもなおさず、その前の世代の生きざまを反映しているわけである。

今の教育界が色々な問題を抱えながらも、多数の者が上級学校に進学するということは、日本という国家的見地に立てば悪い事ではない。

この事は社会の底辺の方の知的レベルを引き上げるという面では大いに結構である。

この事が日本の国力のアップにもつながっていることは否定できない。

けれども、上の方を眺めた場合、これは日本の教育行政のそのままの姿が反映されて、特別な秀才とか、極めて特異な才能というものの芽がつぶされているという事も否定できない。だから、日本の教育行政という枠の中に収まりきらない人は外国に出てしまう。

これが頭脳流出という現象である。

産業界でよく云われているように、日本は外国のアイデアを盗んですぐ商品化して金儲けをすると云う非難は、こういう日本の教育行政の拙さがさせているわけである。

 

            利に覚い精神構造

 

これについては教育界ばかりを責める訳にはいかない。産業界もその責は負うべきである。日本は基礎研究が弱く、応用分野で他からのアイデアを上手に利用するので、外国からは嫌われているという評判も、外国人のやっかみばかりではないと思う。

この基礎研究をしないというところが日本の風潮を、日本人の物の考え方をモロに現しているのではないかと思う。

日本人というのは、特に戦後の日本人というのは、こつこつと、勤勉実直に努力するということを嫌う傾向がある。

これは何も学会ばかりのことではない。

日本全体がこうした目に見えない努力を回避する傾向がある。

それで効果のはっきりした、結果のすぐ出る応用面、又は、リスクの少ない安易な方向を選択するという傾向がある。

一言で云えば利にさといということだろうと思う。

これも基礎科学を応用する能力が無いことにはそれも出来ない。

だから一概に悪いということは出来ない。

日本が基礎研究をすぐ応用するだけの能力というか、余力というか、キャパシテイ−を持っているという意味では素晴らしい事であるが、リスクを出来るだけ回避したいという、この精神構造がある間は、外国から警戒されても致し方ないところである。

基礎研究というのは全てが応用出来るとは限らない。

応用の効かない全くの無駄と思われるような研究が掃いて捨てるほど有るはずである。

学術研究というのはそういうものだろうと思う。

日本で古くから云われている言葉に「若い時の苦労は買ってもやれ!」という事があるが、今の日本人というのは、こういう精神を全く喪失している。

学会も今述べたような状態だし、個人のレベルまで下げても、今の若い女性の結婚観というものは、手鍋さげてもというものは全く存在せず、始めから好条件を望んでいる。

つまり日本全体が苦労することを避けて通ろうとする。

この傾向が日本全体を支配しているとすると由々しき問題である。

こういう問題がどうして日本人の中に起こってきたのかといえば、やはりこれは終戦という価値観の変革がもたらしたものでないかと思う。

今迄の、お国の為に滅私奉公という概念が崩れ、民主主義というものに変わった。

これは100%の価値観の変革であったはずである。

今迄は、お国の為、天皇陛下の為と云っていたものが、今度は一辺に「人民の人民の為の人民による政治」というものになった。

 

             日本風民主主義

 

この時に、日本人が民主主義を理解するについて、その理解が中途半端に終わってしまって、民主主義というのは、自分の我儘を云うことだ、と勘違いして認識することによって、日本的民主主義という、同じような民主主義という名前で呼ばれてはいるものの、本当の民主主義とは異質の物を受け入れた。

受け入れたというよりも加工したというべきかもしれない。

日本は元来、外来の物を日本風に変質させる事が上手な国民性がある。

外国から日本に伝来してきたものを日本風にアレンジした事は枚挙それでにいとまが無いことはご承知の通りである。

それで民主主義というものも日本風にアレンジしてしまった結果、本当の民主主義とは違うものが出来上がってしまった。

前にも述べたように、民主主義には権利と義務が車の両輪のように表裏一体となってついて回っているのに、権利の主張のみ肥大化させてしまい、義務の方は矮小化してしまっている。だからこの関係のバランスが崩れてしまって、いびつになっている。

権利の主張はマスコミは大々的に取り上げてくれるが、義務の履行の方は全く報道されない。権利を主張することは誰でもできるが、義務の履行というのは権利の主張よりは難しいことである。

義務の履行をマスコミが大々的に報じてくれるのは、高額納税者の発表の時と、それに付随して脱税に関するものであるが、これなども義務の履行、不履行を報道するという観点よりも、むしろプライバシ−の暴露というニュアンスの方が強い。

民主主義の根源に関わる権利と義務の観点というものは始めから欠落している。

「無冠の帝王」と自認するマスコミにおいてさえ、民主主義を自分流に解釈して、自分の都合次第でどういう風にも言い換えている。

それで以て、ペンの暴力でもって帝王然としている。

日本国民の全部が、デモクラシ−の本質を真剣に考えた事がないので、日本国民の各層各段階で、それぞれに自分の都合の良い部分だけを取り上げて、それを民主主義だといっている。丁度、盲が象を撫ぜているようなものである。

ここに今日の混迷の原因が内在していると思う。

さらに、日本の民主主義の混迷を助長しているものに裁判の判決というものがある。

民主主義の世の中になって、自分の都合の悪いことは裁判に持ち込むという風潮が、これもデモクラシ−の一環として、敷衍してきたことは大筋では結構なことである。

ところがこの裁判において、偏向した判決というものも当然出てくる。

これも戦後の思想信条の自由という事で致し方ない面があるが、裁判が偏向したり、教育界が偏向教育に陥っては何が正義かという、善悪の根源が定まらなくなってしまう。

今の日本はこの状況ではないかと思う。

この状況が続くという事は日本の国内においては民主主義、デモクラシ−というものが、日本流の民主主義のままで継続し続けるということである。

日本人の日本人の為の民主主義であれば、これはこれで決して悪い事ではないかもしれない、ところが、今の日本というのは地球上に日本という国一国が存在しているわけではない。

地球上には160か国の国が存在し、その一つ一つと、日本は同じように仲良くやっていかなければならない。

世はまさにグロ−バル化しており、地球は段々小さくなっており、人と物の交流は益々盛んになり、国境という壁は益々低くなろうという時に、日本だけが、日本独自のゆがんだ民主主義で通用するのかどうかという問題が出てくる。

この地球上においてソ連という国が開放されて以来というもの、共産主義というものは勢力を弱めている。

民主主義というものが地球上に勢力を蔓延しているのに、日本の民主主義のみが異質のままで通るのかという事を考えなければならない。

外国の原材料を輸入して、それに付加価値を付け、再び輸出して日本はやっていかなければならない。

この貿易立国、商業立国という立場からもこの状態が変わるはずがない。

その国がいびつな民主主義でいいのかどうか、国民がもう一度胸に手を当てて考えてみる必要がある。

 

          いびつになる外来思想

 

先に述べた偏向した裁判の判決とか、偏向した教育というものはマルクス主義的な物の見方であるという事は明らかであるが、日本の民主主義がいびつになったと同様、日本の共産主義というものもそれなりにいびつになっている。

全く不思議なことに、日本に入ってくると何でも変形する。

まるでプリズムに光が入ると屈折して出てくるように、日本に入ってきた民主主義も、共産主義も同じように屈折してしまう。

これは日本に入ってくる、あらゆるものに云える事ではないかと思う。

日本に古来からある日本文化、乃至は日本民族そのものがプリズムになっているという事である。不思議な事である。

日本の共産主義が本家本元と同一の物だとしたら、ソ連の崩壊と同時に日本共産党も消滅しなければならないのに、日本の共産党は21世紀に向かってなお一層延びようとしている。

この日本共産党に同調した裁判官なり、教育者というものが間違った方向に進むと、民主主義の誤差と、共産主義の誤差がお互いに相乗効果を発揮して、日本を益々混迷の方向に導きかねない。

けれども、それを排除したり、除去することは出来ない。

なんとなれば、信教の自由という民主主義の根源に触れるからである。

この信教の自由という錦のみ旗は誠に都合がいいスロ−ガンである。

水戸黄門の印籠のようなものである。

その具体的な例が、日本の公立学校、および公立の施設で国旗を掲揚すると軍国主義につながったり、靖国神社に参拝すると軍国主義につながるという主張、論法である。

公立の施設で国旗を掲揚するとどうして軍国主義につながるのか、戦没者に参拝するとどうして帝国主義の復活につながるのか、信教の自由の下にこうした発言が罷り通っている。

信教の自由と叫ぶ前に、日本国民の一人として、自国の国旗に対する尊厳ということを忘れている。

自国の為に戦った先人を敬う事を忘れている。

このように、自国の尊厳を冒涜する事が、民主主義だと思い違いをしている。

仏教徒であろうと、神道であろうと、キリスト教であろうと、その前に、日本の国民の一人であるということを忘れてしまって、まるで外国人のような発言をしている。

アメリカ人やイギリス人に日本の国旗を敬えといえば、彼らは当然反発してくる、

彼等には星条旗なり、ユニオン・ジャックという自国の国旗があるので、それは当然なことである。

彼等は彼等で、それぞれの国旗を公立の施設に高々と掲揚しており、誇りを持っている。

アメリカ国家の為に戦ってなくなった人、イギリス人の為に戦ってなくなった人の墓に対しては宗教を越えて参拝するのに、なぜ日本人だけが出来ないのか?

戦後の日本人は日本人であることを否定する事が、知識人の免罪符だと思い込んでいるところがある。

日本人でありながら、日本国家を侮辱し、日本の旗を侮辱し、日本の国歌を侮辱する。

その口実が信教の自由を以てそれをしている。

特に困ることは教育界にその傾向が強い事である。

だから必然の結果として若い世代では日本の国歌というのはボクシングや相撲の歌と思い込んでいる。

実際そういう時にしか、日本の国歌を聞くチャンスがないからである。

公立の学校で国歌を斉唱することをしなくなったからである。

日本の敗戦の原因を全て軍人のせいにして、その結果として戦没者への参拝を悪と決め付けてしまったのである。

 

            日本共産党の成果

 

これは戦後の日本の教育界が、共産党の息の掛かった日教組というものに支配を許したからである。

日本の行政も教育委員会も、この日教組という共産主義集団と対決することを回避したからである。

日教組が民主主義の具現者という仮面を被って、偏向教育を施した結果が、日本人でありながら、日本国家を否定する日本人を作り上げたのである。

日本人の大部分がマッカアサ−が付与した民主主義の憲法のもとで、信教の自由を享受できたはずであったけれども、日本の共産主義者がこの項目を最大限に利用して、日本の民主主義をいびつなものにしてしまった。

日本の共産主義も本来の共産主義とは異質の物である。

この異質の共産主義というものが、日本の民主主義というものをより一層いびつなものに増幅してしまった。

それに対応する行政サイドや、教育関係者の対応が拙かったのは事実である。

というのは共産主義者の政党、共産党というのは、日本の戦後史の中でも過半数に達したことはない。いわば、ずっと弱小政党であった。

日教組が共産党に支配されていたとしても、日本全国民から見れば、共産党の得票率というものは、日本の政治を左右するだけの力はなかったはずである。

けれども、日本共産党、乃至は共産主義者が、日本の民主主義をいびつにするだけの効果のある実績を作ったわけである。

教育界における日本の共産主義者の活動は功を奏したわけである。

教育界における偏向教育というものは、完全なる成功を治めているといえる。

ここに日本人は日本人でありながら、日本の国家を否定する日本人が、特に若い世代において誕生したわけである。

先に、イギリスの前首相サッチャ−女史の討論を文章にしたことがあるが、サッチャ−女史は国の誇りと云うことを強調していた。

こうした国の誇り、イギリス人ならイギリス国家の一員であるという誇り、アメリカ人ならアメリカ合衆国の一員であるという誇り、フランス人ならフランス国家の一員であるという事の誇り、自分は国家の一員である、という事の誇りを日本人は忘れてしまっている。

だから自国の国歌をスポ−ツの歌と思ったり、国旗を侮辱したりするような事態になるのである。

この、国の誇りというものは、独立国家なら当然国民の義務、いや、義務という強制されたものではなく、必然的に体内に宿る潜在意識であるはずである。

外国に占領支配されるということは、これが押し込められて、自由に表現できないという事である。

だから、つい最近ソ連から離脱したバルト3国というのは、独立と同時に自国の国旗を掲揚するわけである。

独立国家の国民ならば、潜在的に体の中に持っている感情であるはずである。

その感情を発露するために、今、ユ−ゴスラビヤではクロアチヤが民族の独立を主張して訳の分からない戦争をしているのである。

地球上で先進国というのは、一応大雑把ではあるが各民族単位で独立国が成立し、安定しているわけで、今のクロアチアのような民族紛争というものは終演している。

アメリカは多民族国家とは云うものの、民族は違ってもアメリカ合衆国の一員であるという事には誇りを持っている。

ひるがえって、日本人はこの国の誇りというものを持っているだろうか?

私が思うに、日本人にはこうした国の誇りという観念は始めから欠落していると思う。

向こう三軒両隣、どちらをみても、居るのは日本人ばかりである。

こういう自然環境の中で、公立の施設に国旗を掲揚することもなく、又、国歌を歌うこともなく成長してきたので、国の誇りなどという概念を教えられるチャンスに恵まれていなかった。

成長過程の大部分を占める学校教育の期間というものは、共産主義者による偏向教育である。そういう環境で育った人々が、大人になって国の誇り、日本国家の誇りという概念に直接ぶつかっても、理解できないのも致し方ない面もある。

これは、これから地球が益々ボ−ダ−・レスの時代になって、より外国というものが身近になってくると、色々と問題が出てくると思う。

日本人が自国の国旗を侮辱してもこれはトラブルにならないけれども、相手国の国旗を侮辱すればこれはトラブルの種になりがちである。

それから、戦没者への追悼の気持ちでも同じ事が云える。

日本人は靖国神社に参拝しなくてもこれは問題にならない、けれども相手の国の戦没者の墓を蔑ろにすればそうはいかない。

面白いもので、この戦没者の墓というのは旧敵国であっても、平等に敬意を表することが世界の常識である。

ところが日本人はそこのところの理解が足りないので、こうしたトラブルもあり得ると思う。

戦没者というのは敵味方を問わず敬意を表すべきものである、という認識は、若い日本人にはないと思う。

死者を敬うということ、は比較的容易に理解できるが、戦没者というのは過去に、その国の為に戦った人達の墓で、国の為に戦うということは、敵味方を越えて崇高な行為である、という世界共通の認識により、より丁重に扱うべきものであるという概念を持ち合わせていないと思う。

日本人の若い世代の認識だと、戦争をした人を何故敬うのかという、反論が出てきそうな気がする。

国の為に戦うという事が、敵味方を問わず立派な行為という認識が、日本全部の国民に欠落しているから、この現象を一方的に責めることは出来ない。

戦後の教育が共産主義者によって滅茶滅茶にされたことを嘆いたところで、それを黙って眺めていた一般国民に方にも一抹の責任がある。

げに教育の効果というのは実に恐ろしい。

外国の教育事情を視察したわけでないので、よくは分からないが、テレビや新聞等マスコミを通じて流れてくる情報により総合的に推測すると、諸外国では初等教育というのはほとんどが管理教育ではないかと思う。

この管理教育というのは生徒を管理するのではなく、教える側を管理するわけである。

別な云い方をすれば国策的教育である。

国策的という意味は昔の日本の教育のように富国強兵を目指すものではなく、民主主義を広げる、人類愛を広げる、自分の祖国を愛するという意味で、その線にそった国策による管理教育である様な気がする。

又、何処の国でもというわけではないだろうが、教科書も国定教科書を採用しているところが多いのではないかと思う。

これなども教育というものが、国の方針の下に管理されるというのが当然なことで、日本のように教科書が何種類もあるという方が異端である。

考えてみれば、教育ということは何処の国にとっても大事なことであるわけで、その国の将来を担う人間を教育するという事の重要性は洋の東西を問わず同じである。

この教育の方針を誤ると、日本のように自国民が自国を冒涜するという事態になってしまう。こういう事態にならないためには民主主義国はそれなりに、又、共産主義国もそれなりの国策として取り組んでいる。

ただ、日本のみはこの教育の場というものを共産主義者に明け渡した結果、無国籍者のような国民を作り上げてしまったわけである。

日本の教育の失敗は、戦後の教育界から共産主義者を排除しなかったことに原因がある。

この時点でどうしてそれが出来なかったかといえば、日本人が民主主義というものを、その時点で十分理解できていなかったからである。

これは行政サイドもそうであったし、国民大衆においても教育界においても、同じように民主主義というものの本質を理解しないまま教育が行なわれてきたことによる。

そして、日教組というものは労働組合であって、労働組合を経営にタッチさせたことによって、今の日本の失敗がある。

日教組がのさばることが出来たということは、民間企業で云えば経営権まで組合に明け渡してしまったのと同じである。

逆説的に云えば行政側に教育に対する信念が無かったことによる。

行政サイドに確固とした教育に対する信念があれば、労働組合に経営権まで明け渡すような愚妹な事は起きなかったと思う。

 

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