父の残した文章

入 院

 

東京での新婚生活時代に蕁麻疹、股間神経痛、肋膜炎を患ったことがあった。

子宮後屈の手術のために4.5日入院したこともあった。

しかし、その後、戦前戦後を通じて風邪も引かず、三人の子供まで出産した。

終戦の翌年、暑い日に1週間ばかり鍬を振り上げ草ぼうぼうの畑地を耕して、芋つくりをした。

またその年から2,3年、趣味と実益を兼ねて刺繍をした。

これは非常に繊細な技術と才能を必要とする座仕事であって、運動不測をきたし、体によくないから何度か中止するように勧告してやった。

しかし、「好きだから、面白いから」と云って、なかなか止めようとしなかった。

どんなに寒いときでも寝るときと起きたときには下着類まですっぽりと着替えていた。

またどんなに暑いときでも昼寝などは一度もしたことがなかった。

それどころか居眠りすらもしなかった。

いくら武家の血を引くからといっても、今時それ程までしなくても、と云っても「私の習慣ですから」と一蹴された。

そんな寿美江が25年の春頃から時々昼寝をするようになった。

「猫は鼠を取るのを忘れ、人は借金のあるのを忘れる」と云われる様な、ぽかぽか陽気に流石の寿美江も降参したかと思っていた。

6月にはいると、水汲み(井戸ポンプで汲み、バケツで数m運ぶ)の後、炊事仕事の後、掃除の後などで土間に足を垂れたまま、お勝手場に寝転んでいたり、台所に寝そべったりするようになった。

その様子は、単に体を休めているのではなく、力が抜けて恰もぐったりしているようにみえた。

これは普通ではないと気付き、寿美江に聞きただしたところ「体がえらい!」からと云った。

6月15日、「今日は小牧病院に行って検診してもらう様に」と厳命しておいて出勤した。

その日がどういう日(多分中間考査)だったか記憶にないが、珍しく午後3時頃に私は帰宅した。

「病院へ行ってきました。今頃はもう検診結果が判っていると思うから聞いてきてください」と云った。

私は早速出かけていった。

医師曰く「レントゲン撮影の結果、片肺は殆ど全滅、病室が空き次第入院するように」とのことで、私は谷間に蹴落とされたような衝撃を受けた。

隠していても何れ判ること故と、思い切って医師に云われた侭のことを話してやった。

寿美江は、こういわれるだろうと覚悟していたようであるが、はっきりと断定されて改めて憂愁の気持ちになったことが私はよく読み取れた。

長姉である藤江姉さんが、結婚後、一子を残して結核で20余年前に亡くなっている。

そのこともあり、又医学知識の豊富であった寿美江が、自身の体調変化に気付かなかったとは思えない

用心もし、疑惑の念を持っていたであろうが、私にはそれが言い出しにくく、また医者から結核と断定されるのが恐ろしく、敢えて診療を受けなかったのではなかろうか。

咳もなく、血痰もなく(何れも最後までなかった)、耐えられないほどの苦痛もなく、ただ倦怠感(疲れてだるい)だけで、ここまで昂進しているとは全く思ってもいなかったようだ。

「こんなになるまえに自覚症状はなかったのか?どうしてもっと早く診てもらわなかったか?」との問責の言葉が喉元まで出てきたが、口には言えなかった。

今更、それを言っても寿美江を失望させ、苦悩させ、かえって症状を悪化させることになると思ったからである。

それよりも明るい希望を持たせることが大事だと思った。

依って、「仮に片肺が駄目になっても、もう一方が完全ならば大丈夫だ、今のうちに何とか食い止めようと。それには医者のいうように、入院して安静な療養生活をすれば2年か3年で治るであろう。入院費など金もかかるが、俺が何とかするから安心して治療しなさい。章生(満2歳9ヶ月)は牛山の両親に預り、上の二人(峯生は小学校四年生、宣生は2年生)は俺が育てるから心置きなく入院しなさい」と奨めた。

それから約半月経った7月2日に小牧病院に入院した。

その時から3ヶ月間位の間は、小原の祖母さんに付き添ってもらっていた。(入院中のことは寿美江の日記に依存す)

こうして私の人生の最も苦難の時代が来た。

前記した、教職に付く、学習塾を開く、「若芽」の発行、その他の項でも散見できるように、忙しさに加えて何時も家庭教師を1・2依頼されていた。

そのうえ家事一切をやらなければならなくなったので、文字通り刻苦就労の連続であった。戦時中の苦労も並大抵ではなかったが、今度はそれに倍する苦労であった。

その詳細を記録にとどめたいのは山々であるが、あまりにも煩雑にわたるので心ならずも省略する。

要するに、戦時中は寿美江も健在であり、牛山に寄寓し、両親にも大いにお世話になり、後掲の憂いが全くなかった。

その上、収入もかなりあって、自分でいうのもおかしいが高給取りの方で、それがある種の励ましになって、苦労を苦労と感じないぐらいであった。

そのようなことが今度は裏目になってしまった。

とういうのは、唯一の安定した収入源である愛知高校でも、当時群発した大学を設置する運動を24年から始めて、25年3月に文部省から認可が来た。

その運動費やら設備拡充のために膨大な費用を要した。

依って、教職員の給与は大学が完成するまでの間、凍結されてしまった。

それでなくても会社勤務時代に較べて遥かに低額であった。

それ故、不足分はアルバイトで補充する他なかった。

会社を辞めた頃にはラジオ商を開業するのに事欠かないほど資金の蓄えは十分あったのに、寿美江の入院後何時の間にか無くなってしまった。

「稼ぐに追いつく貧乏なし」というが、私の場合は全く逆で、「稼ぐに追いつく貧乏神」という状態になった。

町役場から納税通知が来ても払えず、督促状が来ても放置のままであった。

吏員がわざわざ足を運んできても「今は払えない!餓死寸前のものから取り立てようとするのか?」との暴言を吐かざるを得なくなってしまった。

このようなことを数回繰り返している中に何時しか来なくなってしまった。

氏子総代が「天神社の初穂料を!」と集金に来たときには「信教の自由」を盾に断った。町内会長が「祭礼費の寄付を!」と云って来た時も、「町内会長でありながら、現在の実情を理解して貰えないのか?」と云って遂に口論となったが突っ張り通してしまった、

方面委員(今の民生委員)のところへ行き、窮状を訴え、何分の援助を懇請した。

しかし、その委員は元小学校長であり、私の在所である牛山の長谷川家のことをよく知っており、また私が高校教師で相当の収入があるものとばかり信じ込んでおり、「規則上どうしても手続きが取れない、仮に援助手続きをとっても許可にはならない」と云って、取り上げてくれなかった。

こんな恥曝しまでしなければならないほど、耐乏生活をしなければならなくなった自分が本当に残念だった。

こんな苦情は入院中の寿美江には勿論,祖母さんにも、牛山の両親にも云えなかった。

素振りすら見せられなかった。

仕方がなくて、学校から給料の前借をしたことも何度かあった。

早朝から夜遅くまで働き通しで、身も心もくたくたになった。

お蔭様で、私の体は健康で、短い睡眠時間であったが夜中には熟睡していたから続けられたのではないかと思う。

でなければ私はノイローゼになり、家庭悲劇を起こしていたかも知れなかった。

学生時代にも耐乏生活をしていたが、その時は独身であり、有限であり、希望があった。しかし今度は妻子あり、無期限の希望のない耐乏生活である。

比較にならぬほどの重圧感があった。

家内に長期入院されたときの月給取り程、悲壮なものはない、としみじみ感じた。

今のように福祉制度のある時代でなかった。

稼いでも稼いでも、笊で水を掬う様なものであった。

医療関係費ほど高額なものはない。

直って元々、後に何も残らないから。寿美江よ!早く治ってくれよと祈って止まなかった。

 

 

峯生追記  父が何時書いたものか判らないが、平成15年11月6日原稿用紙から転記した

 

 

 

 

碁石を呑む

 

寿美江が入院したとき、章生はまだ2歳9ヶ月であった。

結核の感染を恐れたのと、勤務の関係上私が面倒を見れなかったから牛山に預かり、お祖母(母)さんに面倒を見てもらうことにした。

食事は勿論、着替えから大小便の世話まで一切見てもらい、田畑の仕事や家事作業の間にも腰巾着のように付いて廻り、お祖母さんに抱かれて寝た。

こうしてお祖母さんの監視の元にありながら、ある時(昭和25年12月1日)碁石で遊んでいて、碁石の一つを飲み込んでしまった。

慌ててお祖母さんは弟(憲男)や父に急報した。弟が背負い、父が付き添って、寿美江の入院している小牧病院に駆込んでいった。

診察の結果「うまく胃に収まっているから、2・3日中には便と共に排泄されるでしょう、出なければ切って出さなければならないが!!」ということであった。

一応、皆んなが安心したが不安は残った。お祖母さんは毎日便の検査をしたが2・3日経っても出てこない。

気の休まらないお祖母さんは、その後も毎日検便を続けて15日目に漸く碁石を確認し、溜飲を下げた。他の者もその話を聞いて皆んな安堵した、

何一つ不自由なく可愛いがって育てて貰っていながらも、私が用事などで行った際、私の姿を見ると私について帰ると言って駄々をもこねる。

困り果てて、彼を騙したり、裏口からソーッと逃げて帰るという始末であった。

3歳前後の幼児であるから無理のないことであった。

寿美江の退院後、「誰も居ない時の話し相手にもなるし、一寸した用事の手助けになるから手元に置きたい」と寿美江が言い出したので、半年後に引き取った。

だが、お祖母さんは病弱の親の元でこの子が上手く育つかしらと?非常に心配で眠れない夜が幾日もあったようだ。

しかし、運命というものは不思議なもので、彼は幼子であったが結核に感染もせず、すくすくと健康に育っていった。それとは逆に、母の寿美江の体は段々と蝕まれていった。

それから1年半後、ついに寿美江は現身の人ではなくなった。

章生は母の身代わりになって生まれてきたのかもしれない。彼の4歳7ヶ月のときであった。

私は近くにあったキリスト教幼稚園に入れ、長男か次男が学校から帰って迎えに来るまで1日中園内で遊ばせて貰うことにした。

 

「若芽」の発行

 

昭和25年度の中学1年生は、山田(社会)、小倉(英語)、古市(数学)長谷川(理科)後藤(国語)の5人で担任することとなった。

特に、この年度の入学者は、試験的に年度末の組換えもなく、3年間担任持ち上がりでやってみよ、ということになった。

こうなると担任先生の担当課目や個性による感化など、生徒に与える影響は非常に大きいので、先生の責任は重大である。

生徒の出身小学校は全部異なっており、一人一人はこの学校については全部白紙の状態からのスタートである。

その上、この頃は新制度が発足してまだ3年経ったばかりのこととて、公立新制中学の不備の点が多々あった。

従って、名古屋市内の私立中学へ優秀者が殺到した。

この中には将来を嘱望するに足る人物が居るであろうから、と大いに張り切った。

智、徳、体はもとより、全人格の育成に力を入れようと覚悟した。

私は理科の担当をしていたが、数学の面でも大いに自分のクラスの生徒を絞ってやり、代数の公式類は徹底的に暗記させてやった。

又、体育の時間に、東山公園一周のマラソンがあるときなどは、ランニングシャツ1枚になって一緒に走り激励してやった事も何度かあった。

そうした中でも特筆すべきは、期末毎に「若芽」という文芸誌を作ってやったことだ。

随筆、小説、和歌、俳句、漫画、クイズ、・・・・・等々、何でもよいから一人残らず投書させ、学期末毎に原紙を切り、ガリ版刷りをし、編集発行してやった。

26年9月に、平和条約が締結され、日本が独立国家になったのを機に「これからは諸君も僕の手から離れ独立し、君たちだけでやれ」と云って、激励し私は監督をしていた。

丁度、長谷川塾をやっていた時であったので、日曜日の午前中に、文芸委員を塾に集合せ、原紙切り、謄写印刷、編集、製本まで、彼ら自身の手でやらせた。

差し入れに来て下さった父兄もあった。

私も毎回巻頭言を書き、その他色々の書き物を寄稿して、内容は師弟合作のものであった。

委員達は非常によく働き、協力し合ったことにもよるが、クラス中の者が自分の作品が毎回載っているのに興味を持ち、関心を抱き、次回の発行を鶴首して待っているという具合で、遣り甲斐のある部外活動であった。

彼らが28年3月、中学を卒業する時、今まで発行した9回分の小冊子を学校に持参させ、製本屋に発注し「若芽」第1号、第2号の2冊に纏め、末永く保存しやすいようにしてやった。

その後、彼らは新制高校に進み、別々の組に編入されていき、私は授業中だけしか顔を合わせる機会はなくなたが、文芸部員をやっていた者は、全員が新聞部部員と文芸部部員になり、高校3年生になった時は、両部ともに彼らが牛耳っていたのは育ててきた私にとっては痛快極まりないことであった。

大学へ進学した者も、就職した者も、あれから31年、幹部職員とし、或いは一家の主人として立派な社会人となって活躍していると思う。

当然のことながら、嬉しいことには未だ一人も訃報を受けていないことだ。

益々の健闘努力を期待して止まない。

思えば、寿美江が発病したのも、病没したのも、これらの生徒の担任中であった。

私にとっては正に内憂外患の時期でありながらよく頑張ったと思っている。

御父兄の方々からは色々な面で一方ならぬ御支援を受けた御恩は終生忘れられません。

その中でも、舟橋啓文君の御両親は薬局を経営しておられたので、避妊薬や結核の特効薬など融通していただいて本当に嬉しかったが、薬石効なく昇天してしまいました。

ここに改めて謝意を表しておきます。

高熱に冒される

 

章生が牛山から帰ってきたその年、昭和26年には、長男の峯生は小学5年生であった。

その夏休みが終わりに近づいた8月20日から峯生は突然に熱を発し、9月5日頃まで42度の高熱が続いた。

この頃、寿美江は退院して家庭療養中であった。

病気中の寿美江が、病気の我が子を看病するという痛ましい状況になったが、兎に角、必死の看病振りであった。

小牧病院から医師が来て、天井から牛か馬かにするような大きな瓶を吊るし、脊髄にリンゲル注射などを何度もした。

注射針が上手く刺さらなく、あっちこっちと刺し替える痛さに耐えかねて、暴れる彼を押さえつけているのが辛かった。

リンゲル液が全部注入されるまで30分乃至1時間くらい掛かったと思うが、15日間に、こんな注射を数回繰り返した。

あまりに突然の發熱で(日射病?が原因かと思ったが)原因は全く不明、当時あっちこっちで日本脳炎が発生していたので、それかと尋ねてみたが、医者は最後まで病名不明のままで通した。15日間を過ぎた頃から、熱も徐々に下がり始め、9月の20日頃には体の方は平常に戻ったようであった。

それまでの間に寿美江が峯生に尽くした食事、医療、下の方の世話、その他夏のこととて着替えや床擦れの防止の手当てなど、母親ならではの感があった。

・・・・・・その後、9ヶ月で寿美江は他界した・・・・・・・

その甲斐あってか、峯生は一見して心身共に異常は認められないようであったが、15日間の長い高熱のため、脳の方が可也りの衝撃を受けた。

「新聞を取ってきてくれ」と頼むと、そこらにあるものを手当たり次第持って来て平気でいる。話をしていても、何所となくチンプンカンプンである。一時は痴呆症になってしまったのかと心配した。

長い間学校を休ませるのもどうかと思い、担任の先生に事情を説明し、御迷惑だが特別監視を依頼しようと、私が彼を連れて学校に行こうと出掛けて行った。

ところが途中から彼はどんどん駅の方に行ってしまう。「どこに行くつもりか?」と問えば、「学校に行く」という。

「学校はこっちだ」と手を引っ張って戻ってくる。

初日はこうして担任の先生に懇願し、朝礼が終わって、彼が教室に入いるのを見届けてから帰った。その後は弟の宣生に監視させて登校させていたが、その間にも全く方向違いの方へ行ったことが2・3度あったと聞いた。

それから1週間ぐらい経った頃であろうか、授業の途中で、裸足で教室を飛び出していき、行方不明になってしまった。

慌てて担任先生はすぐに授業中止、校長の許可を得て、クラス全員で手分けして、あっちこっち捜索に当たらせた。

その結果、小牧駅で彼を発見し、教室に連れも度すという一幕もあった。

その後も2回教室を飛び出したことがあったが、2回とも家に帰っていた。

その頃、寿美江の母が留守番かたがた手伝いに来てくれていたので、担任先生は安堵の胸を撫で下ろして帰校した。

後で宣生が鞄や靴を持って帰ってきた。

高熱に冒された脳の後遺症も徐々に回復していたが、年内中は安心できなかった。

彼の高熱時、私が夏休みでなかったら、又寿美江が退院中でなかったら、彼は死んでいたかもしれない。不幸の中の幸運であった。そう思うと、彼が生き延びてくれるだけで十分であり、私は他に何も彼に望まなかった。

 

胎児の掻爬

 

寿美江が退院することになった時、埃っぽい畳の上に万年床を敷いていては呼吸器病にはよくないと思い、病院で使用していた鉄製のベッドと同じものを購入することにした。

年の暮れの押し迫った(昭和25年12月27日)霙降る寒い日であったが、牛山に寄り、リヤカーを借りて名古屋(新栄町の井桁屋)まで引いていき、それに乗せて運んできた。

寝台の寸法に合わせて、牛山の母が藁を詰めてマットレスを作ってくれた。

この苦労や骨折りを寿美江がどれ程感じていてくれたか知る由もないが、その上に布団を敷いてずっと寝ていた。

同じ屋根の下に住みながら、又夫婦でありながら、同衾することは出来なかった。

既に、少なくとも半年以上は性交渉は無かった。欲求不満は積もる一方であった。私にとっては猫の前に置かれた鰹節のようであった。退院はしたものの療養中である。胸部以外に疾患はないといっても寿美江の体はひびの入った陶磁器やガラス器同様であった。無理をすれば何もかも御破算である。この上は大事に大事をとり、細く長く持ちこたえなければならないと思っていた。寿美江にしても全く同じことを考えていたに違いない。

病気の所為で満足させて上げられない、健康体の主人に対して済まない、とか気の毒だ、位のことは考えていたであろう。

その一方で、此の侭女の一生を終えるには忍びない、との気持ちもあったに違いない。

建て前と本音の狭間て苦しんでいたであろう。

互いに理解し合っているけれども、互いに判っちゃいるけれども止められない。

理性でコントロール出来ないのは本能の所為であろうか。

無理を承知で両人とも気を許してしまう。恐る恐るではあるが満を持していたこととて、私の方はすぐにクライマックスになってしまう。寿美江の方はオルガスムスにならないうちに終わる。それでも一応いらいらの気分は解消する。退院後、私達の間にこんなことが何度あったであろう。矢も楯もたまらなくなってのことで、実に慎重そのものであった。病気が二人の間を引き裂いてしまったのであった。夫婦とは名ばかりであった。だが私達は病気こそ呪ったが、互いの間では信頼しきっていた。相思相愛の夫婦であった。

歓びの後に憂いありというが、寿美江の生理作用が止まったことが判ると、高貴薬と云われた流産剤を注射して早速流してしまった。

1度目は見事に成功したが2度目は失敗であった。

峯生の大病が峠を越した9月下旬になった時、主治医の診察を受けたところ「母体の安全のためには絶対に生んではならぬ」とあって、再び入院し掻爬して貰った。

胎児は既に5ヶ月になっており、女児であった。

歓びの象徴であるべきはずの生命が、このように闇に葬られるという事は痛ましいことであった。生まれておれば長女として入籍したものを。

 

妻の臨終

(昭和27年)5月18日(日)、

今までそれ程苦しい様子は一度も見なかったのに、今朝は8時頃から非常に苦しみ始めた。

10分間ぐらいであったが発汗した。

5月19日(月)

昨日のようなことはそう度々あるとは夢にも思わなかった故、平常通り出勤し、誘われるままに、生徒の家に招かれ、夕食を御馳走になり、10時頃帰宅する。

午後3時頃よりまた非常に苦しくなり、宣生と章生の二人では心細く、小生の帰りをどれだけ待ちわびたか知れないとのことであった。

病勢、とみに改まりたることを自覚し、大阪の妹雪江のところにいっている母に「スミエキトクスグ コイ」の電文を自分で書き、隣の草田さんに打電してもらうよう7時頃宣生を使いにやったとのこと。

病勢の悪化に半信半疑すると同時に、自分の危篤電報を自分で認めた、その気丈夫さに私は唖然とした。

その重態さに気付かず、遅く帰宅した自責の念とで、言いようのない異様な心境に追い込まれた。

「こんなに苦しんで死ぬのは嫌だ、後生だからモルヒネを是非買ってきて頂戴、人助けだと思って、是非」と哀願されたのには閉口した。

是非も無いこととは思うが、無理死にさせることは絶対に出来ないと心に誓い

「それだけは聞いて上げられない」となだめながら断念さす。

10時半頃、峯生を病院に使いにやり、来診をして貰ったが「十分に気を付けなければいけません」と云って帰っていった。

5月20日(火)

5時10分起床、朝ご飯を炊いていると何十年来聞いたことも無い鳥の鳴き声に「ハッ」と胸を打たれる。

しかも我が家の真上辺りを西から東へ、とりわけ大きな声で鳴きながら飛び去っていった。

一瞬、不吉な予感が肺腑を突き上げ、思わず知らず涙が頬を伝わって流れる。

例の如く小牧駅で本荘先生と乗り合わせて仔細を話す。間内駅で下車し父母の元に走る。

今日一日看病に来てくれるように依頼してから登校。既に本荘先生から様子を聞いていた諸先生は小生を哀れみ、急遽帰宅の上、看病に努めるよう忠告激励してくれる。

感極まって暫く涙の止め処もなく、好意に甘えて直ちに下校、10時に帰宅す。

憲男にリヤカーに乗せてもらい両親既に帰宅中であった。

1時頃、昨夜と同じ医師来訪「様態極めて悪い」とのこと。

静江姉、貴美江姉、雪江、山内家、逗子の兄等に葉書で連絡す。

昨夜の電報で、母は午前中には来宅するものと期待していたが6時になった。

この間に雨が降り出す。到着時刻は不明で迎えにも行けず、今日はもう母に会えないものと失望のドン族に落とされたような寂しい想いであったようだ。

突然の電報で嘘だと思って来ないのかもしれない、と断念した時もあったようだ。

しかし、母娘再び対面できた時の喜びは、流石に母娘ならではと想われるほどの喜びようであった。小生も責任の一端が軽くなったように感じられた。

母に会えた喜びは更に発展して、貴美江姉さんにも会いたいと希望した。

早速、葉書を認め7時に速達にしたが、明朝10時頃でないと到着しないとのことであった。

父は午後1時頃帰っていった。

5月21日 (水)

欠勤する。昨日から今日の昼頃までは至極平静であった。

この分ならば安心だからという訳で、牛山の母は帰ることになった故、自転車で送っていった。その間に容態がまた急変した為、宣生が電車で小生を呼びに来たが、自転車と電車で行き違いになった。

この間に妻はまた自筆で電文を書き、貴美江姉さんへ、母を通じて打電方を依頼した。

その後で、静江姉、山内家、雪江宛危篤電報を打つ。電報では間に合わないと思い、貴美江姉さんには勤務先に電話をしたが、主人と共に当地に来るべく既に出発したとのことであった。

宣生は牛山から帰宅するとすぐ学校に峯生を呼びにやったが「来ない」と云って帰ってきた。

依って、小生が早速峯生を呼びに行き、途中から自転車を貸してやって、牛山の両親を呼びにやった。

今わの際に一目たりとも我が子に会いたいと願っている妻に、黙って使いに出したのは小生の不覚であった。

そのために峯生の帰りが遅くなった、と云って瀕死の妻からひどく小言を食ったが、実に面目なかった。

既にあきらめ、落ち着いているつもりであったが、矢張り慌てていたのではないかと自ら慰め、心から妻に謝した。

宣生を呼んで「宣ちゃん、有り難う」、峯生を呼んで「峯ちゃん、有り難う」、次に章生を呼んで手を握って振った。

声が出ない。皆んなをそっと傍に寄せてやった。

「皆んな、体を丈夫にして、良い子になってね」と遺言した。

これが直接子供に対する最後の言葉であった。

私と子供3人と祖母がベットの横に侍って、悄然と妻の最後の言葉を、母の最後の言葉を、娘の最後を見送っていると、貴美江夫婦が玄関から入ってこられた。

余りにも意外な光景に、暫く呆然としてしまい、交わす言葉もない。

合掌して黙祷をささげるのみ。数秒足らずして、牛山の両親が憲男と共に玄関から入って来る。これもまた寂莫たる情景に言葉は出ず、思わず知らずただ合掌するのみ。

何れも臨終に間に合ったということだけで、一同感極まり、ただただ啜り泣きをする。

昏睡状態の続くこと1時間ばかり、やがて衰弱し切ったような目ではあったが、目を見開いたときには絶望の中にも一同愁眉を開いた。

暫くして口をきいた。

「今日は決して死なないから、今からお通夜をしてもらわなくてもよい、みんな帰って休んで下さい」と言うのである。

あれ程待ち焦がれたいた貴美江姉さんにさえ、帰ってくれというのである。

熱の所為か興奮の所為であろうと思ったから、妻をなだめ、貴美江姉さんには泊まってもらうことにし、他の人には帰ってもらった。

東京の静江姉さんには4時に電報を打ったが8時に「見舞いに来られぬ」との返電があった。

大阪の雪江さんからは返電なし。

昨日、憲男の第二子生まれる。憲男一人で大慌てした由。

今日は澄江は牛山に行き、それを聞き、驚き又小生の不幸を知り再度驚嘆、急遽見舞いに来宅、夜にまた見舞ってくれる。

今日の診察は恒川医師であった。

もう時間の問題だと見た彼は「出来るだけ欲しがるものや、美味しいものを食べさせなさい」と云って帰っていった。

5月22日(木)

今日は病状変化なし。医師の来訪も無かった。

今日の見舞い客、小原村から妻の実兄、亨氏、牛山から滝次郎、岐阜から芳枝、入院中ずっと同室であった同病の中島姉、憲男、朝山羊の乳をもってきてくれる。

貴美江姉さんが母と共に病人はじめ色々と世話をしてくれて感謝す。

5月23日(金)

今日の診察も恒川医師であった。

薬を取りにった序に病状を聞いてみたが、「時間の問題だ、大事にしてあげて下さい」と言うのみ。いよいよ見放されているか、と思うと覚悟はしているものの実に淋しい。

今日まで4日間の医療代600円。

貴美江姉さんが布団を片付け、花を飾り、香水ふりかけ、清掃美化に勤めてくれたため、悪臭がなくなり感じがよくなった。多謝する次第である。憲男が夜、電気コードを持って来てくれる。久しぶりに彼と10時まで話し合う。

東京の静江姉からは同情的な来信。大阪の雪江からは「危篤は嘘だったのか」という意味の不服な来信があった。

5月24日(土)

一昨日から病状が落ち着いているし、今日は給料日でもあるし、試験問題の作成、試験範囲の通告等する必要がある故、出勤した。

諸先生の計らいで4時間で下校するも電車の都合悪し、3時に帰宅する。

貴美江姉の義母また病臥したとのことで4時頃雨の中を帰る。

今日の見舞い客、五島氏、黒田氏、毎日来訪してくれるようにと医師に依頼しておいたが、今日は往診が無かった。

5月25日(日)

ここ3日間平静な日が続いたせいか、苦痛が去ったせいか、朝9時頃「もう生きることに決めた」と云う。

諦めている小生にとって意外な言葉であった。

目前に迫っている運命の死を自分の意志ではなんとも出来ないはずだ。妻もそんなことは知っている筈だがと思いながら「勿論だよ、死んでなるものか」と言い聞かせてやった。

気が張っているせいか、病状に変化認められず。

今日の見舞い客、柴田秀雄君の母、午後と夕方、2度父兄来宅、9時頃就寝する。

5月26日(月)

昨夜は眠ったのも束の間、11時頃、容態急変のただならぬのに先ず母が目を覚ます。

続いて小生が離床したるも意識不明の状態である。手の施しようも無い。

1時半頃からはすっかり目尻を吊り上げ、両手を握り締め、痙攣状態である。

苦痛に耐えかねているのではなかろうか、と推察してみるが何とも仕方がない。

真夜中のこととて医者を呼んでも来てくれそうもないし、牛山へ急報する術もない。

夜の空けるまで何とか持ち続けるように、と心で祈り「苦しかろうが頑張りなさい」と言い聞かせつつ憂慮の念に駆られるばかりであった。

このまま臨終になっては子供らが可哀相だと思って、峯生と宣生を起こし見守らせたが、1時半から3時半頃までは起きていたが、子供のこととて何時の間にかまた睡眠していた。

4時15分頃、峯生を無理に起こして牛山に急報す。

非常に冷えた故、ジャケツ、長ズボン、スキー帽を被らせてやったが皆脱いで帰ってきた。

驚いて聞けば、急いだゆえ暑かったからと言いたので安心した。

7時頃、父来宅、容態を見て驚いた。8時頃、貴美江姉に電話で急報してもらう。9時頃、痙攣のため殆ど口もきかない、その口から「お祖母さん、お祖母さん」と頻りに呼び、次に「父ちゃん父ちゃん」と連呼した。

子供も全部集めてやった。

首を前に曲げて「有り難う、有り難う」の意思表示をするのか「さようなら、さようなら」の挨拶をしているのかわからない。

父が傍らに寄ったときも同様に首を垂れるが本当の意味はわからない。

暫くして「貴美ちゃん、雪ちゃん、姉さん」と順々に連呼する声が聞こえる。

今は最後かと思うと落涙する。

10時頃、貴美江夫婦、守山の伯母様が同時に来宅、姉は奇麗な花束を持って来てくれたが依然として目尻を吊り上げ、白眼をして、痙攣状態にある患者を見て、一同暗然として声なくベットの傍らに釘付けされたままであった。

蚊の鳴くようなかすかな声あり。「皆さん、さようなら、さようなら」と合掌し瞑目する。

居並ぶ者、期せずして落涙、合掌し「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・・」と称え、唇を水でぬらしてやる。

いよいよ水盃である。

時まさに11時、呼吸は益々苦しそうである。

     ・・・・・10分、20分、30分、1時間、2時間・・・・・・

依然として容態変わらず、非常に苦しい様子である。

父と守山の伯母が見るに見兼ねて小生に相談を持ちかけてきた。

「早いか遅いか、何にしても時間の問題だ。そのような苦しい状態に長く置くのは、本人に気の毒だ。早く昇天するのを祈ってやる方が、この際本人のためではないかと思うがどう思うか」と言うのである。

「尤もな事だと思う」と答える。

「それでは、こういう時には昔から扇子の要を抜いて、屋根に投げ上げると良いと言う呪いがあるからやってみようか?」と云う。

そんな迷信のあることを初めて知らされた。そんな非科学的なことで効果のあるはずはない。

けれども苦しんでいる妻の病状を見るに偲びず「宜しい」と答えた。

使い古しの扇子が屋根に上がった。勿論、他の者は誰も知らなかった。

だが相変わらずガガガ・・・ゴゴゴ・・・と口をもごもごさせながら、手を震わせ苦悶の様子は筆舌に尽くし得ないほどである。

2時半頃、恒川医師来たり「何時頃からこのようになったか?」と問う。

「今暁からだ」と述ぶ。

頭を持ち上げて見て「完全に頭にきました、脳膜炎になったのです。向こう3日間は気を付けてください」と云う、・・・・・・・。・・・・・・。

依然たる症状が続いている。

4時半、守山の伯母(本家)最後の水を与えて合掌、帰らる。

5時、貴美江夫妻、全く後ろ髪引かれる思いで帰途につく。

相も変わらずガガガ・・・ゴゴゴ・・・

昨夜の睡眠不足のため12時に母と交代することにして9時就寝。特別見舞い客本庄先生

5月27日(日)

丁度12時に目が醒めた。

引継ぎの時、母の話によると、この間に追々意識が明瞭になり、種々のことを述べたとのことである。

丁度、一昼夜前の夜中に時計が12時を打つたのも、又、昨朝と、それから数時間後、臨終と思い皆が落涙して合掌している最中に鳥が鳴いたが、その二度も鳴き声を聞いたとか、医者が「脳膜炎になった」と言った言葉を覚えていたとかである。

察するに、あの無意識、痙攣状態にあった時の出来事をかなり知っていたように思われる。

いくら大きい声で叫んでも答えなかったあの状態中の、ささやかな物音まで記憶にあったとは全く不思議であり驚きであった。

態とであるはずはない。こういうのを奇跡というのであろうか。

母が起きている間にサイダー半分(一本)と、バナナ半切れ、イチゴ数個を食べた由。

代わって母就寝。小生は本稿を起草す。実にかすかな声でバナナを要求したから半分与えた。

程経てイチゴを要求したが、これは品切れであったから夜明けてから与えることを約束す。

「2度目の母ちゃんが来たら子供たち泣かない?」と、途切れ途切れに聞いたが、この意味の理解に困った。

この時点ではそんなことは全く念頭に無かった。それは全く意外な質問であった。

「泣かない」と言えば薄情の様に思うだろうし、「泣く」といえば悲しむであろうし、「大丈夫、泣かないから」と答えてやった。

合掌して「南無阿弥陀仏やりなさいよ」とも云ってやった。

宣ちゃんが、むっくり起きて布団の上に座って母ちゃんの顔を心配そうに見詰めていたのを素早く見付けて「宣ちゃん、おしっこ?」尋ねた。

宣ちゃんが便所から帰って来ると、臥床中、宣ちゃんが手足のように動いてくれたのを思い出したらしく「宣ちゃん、有り難う」とお礼をいった。

数時間前まであれ程惨めであったのに、打って変わったように口がよく利けるし、目がはっきりしてきているのに驚いた。

再び「子供が泣かない?」と尋ねた。

前同様、何と答えていいやら一瞬当惑してしまった。

「大丈夫だから、心配しないでいいよ」と云ってやった。

子供のことが矢張り心配でたまらないらしい。

貴美江姉さんが活けてくれた花を見て「良い匂いがする」と母に伝えたそうであるが、今度は私に「これ高いよ」と言った。

4時に母が起きてくれたから小生は又床に潜り込んで寝た。

7時頃、母の嬉しそうな声で皆んなが一斉にとび起きた。

ガガガ・・・ゴゴゴ・・・という昨日の騒々しさに比べて全く静か、口もよく利けるし、台風一過という晴れ晴れしい気持ちになって早速布団も片付けてしまった。

8時半頃、朝食をしていると母がまたまた用があるそうだから来てくれと呼ぶ。

傍らに行くと「父ちゃん、もう駄目だ、死ぬよ、さようなら」という。

「そんなことはない、急がなくてもよいよ」と云ってやる。

食事を終わって傍らに行ってみると、今度は「みんな来てくれ」と云う。

みんなが集まった時「皆んな、さようなら」と合掌する。

呼吸は極めて静かである。名残惜しそうに「さようなら、さようなら」という。

答えてやらないのは悪かろうと、言いにくかったが「さようなら」といってやる。

     ・・・・・・。・・・・・・・。

静かである。気味悪いぐらい静かである。5分10分と経っても何の気配もない。

又、このような状態が暫く続くかもしれないと思って峯生や宣生を学校に送り出す。

後は母と祖父と私と章生の4人である。

実に静かだ。

眠っている。・・・・・・・・。・・・・・・・。

12時頃目を醒ます。無言のまま動かない。2時頃来診。昨日からの容態を話し、「本当に脳にきているか」といえば「来ている」という。

腎臓をはじめ、体全体に来ており、そのような状態も日によってあるものだという。

山田、小倉両先生及び大西、服部の両君見舞いに来てくれる。

12時頃より本格的・降雨・・・・・。・・・・。

5時頃より時々頭を左右にむけ「うんうん」とあまり大きくない唸り声を出している。

7時頃より唸りは止んだ。また、静寂に帰った。

9時過ぎ、小生風呂に行く。帰って来ると母が「たった今、息が絶えた」という。

午後9時50分。

最後の瞬間に間に合わなかったのだ。

臨終に立ち会えなかったのが残念だった。

祖父も部屋に居たのであるが知らなかったほどに静かに逝ったのだ。

朝の8時頃に「さようなら、さようなら」と言ったのが最後の言葉だったのだ。

享年39歳4ヶ月。結婚生活16年半の生涯に終止符が打たれた。

 

 

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