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よしざか しゅんぞう

吉阪俊蔵

よしざか しゅんぞう

1888.9.15(明治22)〜 1958.7.14(昭和33)

大正・昭和期の官僚

埋葬場所: 2区 1種 6側

 兵庫県武庫郡西灘村(神戸市灘区)出身。吉阪敬信の6男として生まれる。
 京都府立三中、五高を経て、1913(T2)東京帝国大学法科大学独法科卒業。同年高等文官試験に合格。農商務省に入り、その後、商工省を経て内務省に転じた。
 神奈川県理事官などをへて、'19 パリ講和会議全権随員となり、同年ワシントンで開かれた第一回国際労働会議に政府代表随員として列席した。以後第三・四回 国際労働会議に政府代表顧問をつとめた。'21 内務省社会局書記官に就任。その後、スイス駐在で家族で移住し、'23一家で帰国。'28.12(S3) 国際労働機関(ILO)理事会 帝国事務所長に就任し、再びジュネーブに駐在のため一家で移住。その後、一家で帰国し、'31 第十二回国際労働会議政府代表、'36 内務省社会局参与、'39 商工組合中央金庫理事、'42 商工組合中央金庫理事長(〜'47)を歴任。
 戦後は商工中金理事長を続けつつ、日本商工会議所専務理事などをつとめた。 著書に『改正工場法論』『改正工場法』『ラテンアメリカ』やB.H.チェムバレンの訳書などがある。享年69歳。

<日本人名大事典 現代>
<講談社日本人名大辞典>
<人事興信録>


よしざか しゅんぞう よしざか しゅんぞう

*吉阪隆正建之。「有形学」と称する独自の形態学をもち、コンクリートによる造型で知られた建築家らしく、墓所もコンクリート壁に墓誌がある形。コンクリート壁にはインドの詩人タゴールの詩がフランス語で書かれている。コンクリート壁と地面のコンクリートの隙間にモザイクタイルで花の画。これは代表作の八王子のセミナーハウス等でも使用されている技法である。墓誌には吉阪俊蔵、花子、吉阪隆正、富久の順番で各々の自筆で刻む。

*洋学者・医師の箕作阮甫(14-1-2-2)の三男の動物学者の箕作佳吉の次女の花子(1897.4.14-1983.10.15:同墓)と結婚。俊蔵と花子との間に2男1女を儲ける。長男は建築家の吉阪隆正(同墓)。次男は昭治、長女は よし子。隆正の妻の富久(1924.8.24-1996.2.28:同墓)は、医学者で眼科の権威である甲野謙三・綾子夫妻の娘。綾子は箕作元八の長女。よって箕作元八は佳吉の弟なので吉阪夫妻は又従兄妹同士で結婚したことになる。


【コンクリート壁に刻むインドの詩人タゴールの詩(フランス語)】
Le soleil a rendez-vous avec la lune
La lune est là
La lune est là
mais le soleil ne la voit pas
Pour la trouver il faut la nuit

太陽は月とデートをしています
月はそこにいる
月はそこにいる
しかし、太陽は月を見ていません
月を見つけるには夜が必要です


*フランスのシャンソン歌手のシャルル・トレネ(Charles Trenet)の「Le Soleil et La Lune」(太陽と月)の歌詞の一文でもある。なおこの曲の作詞は、1939 トレネ自身の作品である。その部分は下記である。

太陽が月とデートの約束をしたよ
でも月は来なくて太陽は待ってる
地上でもしょちゅう男(オス)は女(メス)を待つ
男(オス)はそうしなきゃならないの
月がやって来た、月がやって来た
月がやって来た、でも太陽は会えないの
月に会うには夜にならなきゃ
夜にならなきゃいけないのに、太陽はそれがわからず輝きっぱなし
太陽が月とデートの約束をしたの
でも月は来なくて太陽は待ってる
パパはねそういう光景を見たって言ってるよ


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