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よしだ そうい

吉田宗意

よしだ そうい

1787(天明7)〜 1848(弘化5.1.25)

江戸後期の茶人

埋葬場所: 3区 1種 30側 20番

 陸奥国(岩手県)出身。通称は要人、名は隣好。号は蛍雪庵、時習軒、力圍齋。奥州一関田村家・田村右京太夫の家臣として仕え納戸役を勤める。
 茶道を板橋閑清に学び、のち宗偏流宗匠(宗偏流時習軒派の六代家元)となる。性風流を好み山田宗俊に従って奥儀を研究した。門人多数。その宗偏流五世で小笠原家の茶頭の山田宗俊(1790-1835)の逝去に伴い、宗俊には子がなく、婿養子の山田宗也(宗弥)に不都合があり同家を追われたため、山田家断絶の危機に陥った。家元の家流が途絶えることを惜しんだ主君の小笠原長行の配慮により、宗意は息子(次男)の義明宗学を山田家の養子として六世 山田宗学(1809-1863)として継がせた。
 宗学を山田家に出したため、娘の かね(同墓)と結婚した宗賀(同墓)を婿養子として迎え入れ、宗偏流時習軒派を継がせた。享年60歳。宗賀没後は 吉田かね が継いだ。

<「東京掃苔録」藤波和子>
<講談社日本人名大辞典>
<平凡社『日本人名大事典』>


墓所 墓所
よしだ そうい よしだ そうい

*墓所には3基。正面二基並び、右側が「先祖代々」。左側が「時習軒宗意居士之墓」の刻みの左隣に小さく「純譽孝道居士」と刻む。裏面は弘化五戌申年一月二十五日 / 純 明治六年十一月十日」と刻む。墓所左手側に戒名等がびっしり刻む「先祖代々」和型墓石が建つ。延宝、享保、宝暦、文政と江戸中期の元号の文字がみれることから、吉田宗意以前の先祖代々であることがわかる。

*吉田家先祖代々の墓は芝清光寺墓域より改葬された。

*宗偏流の「偏」は正しくはギョウニンベンである。

*名前のヨミを「むねおき」とするものもある。


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