陸奥国稗貫郡花巻(岩手県花巻市)出身。祖父は仙台藩亘理伊達氏に仕えた新妻興左衛門、父は吉田雄吉(新妻興左衛門の4男)。宮城県石巻で育つ。
1873(M6)上京して築地新港町の化学研究所で石油精製方法研究に従事した。1875 石油開発事業のため新潟県中条町に赴任。1877.10.3 同地の講義所(中条教会)において、セオバルド・エイドリアン・パーム(日本派遣最初の宣教医師)、押川方義、水谷惣五郎らの説教を聞きキリスト教に回心。1878.11.5 パームから井上敦美(のちに伝道師・弁護士)と共に受洗。以後、パームや押川を助けて伝道に従事する。
東北伝道の希望を持ち、2、3度伝道旅行を試みた。1880.8.6 新潟大火で新潟の講義所が焼失し、再開の見通しがたたなくなったため、パームから移住を許可された。翌月、押川と共に「東北を日本のスコットランドに」を合言葉にまず仙台に赴き、同.10 北三番町木町通り角屋敷に「基督教講義所」を開設して伝道を開始した。当所反応は鈍かったが精力的に巡回し、聖書を売り、路傍伝道を行った。翌年、押川は腸チフスで三か月間の療養生活となったが、押川不在のその間も精力的に伝道を行う。1881.5.1 横山覚、伊藤悌三の二人を洗礼したことを機に、会員18名で仙台日本基督教会(日本基督教団仙台東一番丁教会)を創設した。これ以後、プロテスタント各派が仙台に進出することになる。
1885.4 陸前古川教会、同.10 岩沼教会、同.11.7 亀太郎の両親の自宅を集会所としての伝道活動から石巻一致教会(石巻基督教会:日本基督教団 石巻山城町教会)の創立に携わった。その他も、福島、函館、室蘭、紋別、浦和などでも伝道に従事し教会を創立した。また教会だけでなく、仙台に仙台神学校(東北学院)、宮城女学校(宮城学院)なども創立させた。
1892.10 受按。東北地方の伝道布教活動に尽力した。享年73歳。
*墓所には二基。左側は洋型前面に「我らの國籍は天に在り フィリピ書」(以前は和型の「吉田家之墓」だった)と刻む墓石、右側に「吉田龜太郎 / 室 まち子 墓」(自然石)が並ぶ。亀太郎の墓の前面右下に「ヱホバ聖徒の死は そのみまへにて貴とし 詩篇百十六〇十五」と刻む。裏面「龜太郎 千九百丗一年十二月二十六日永眠 / まち子 千九百丗四年十一月三日永眠」と刻む。
*亀太郎の妻のまち子は旧姓は石黒。当時栄えていた油屋の娘であったが、家が倒産し苦境の時期、キリスト教新潟教会でパーム牧師との出会いから、横浜共立女子学校に寄宿生として入ることができた経緯がある。亀太郎はパーム牧師との出会いで開拓伝道師の道に入る頃、パーム牧師を介して結婚した。
*亀太郎と まち子 の5女の忠子は田村幸太郎に嫁ぐ。田村幸太郎は内村鑑三(8-1-16-29)を師事。アメリカの総合情報システム企業「NCR」や戦後は産業能率大学専務理事としてセールスマン教育者として活動した。二人の子(亀太郎の孫)は忠幸、義也、明、千尋。戦後は子どもたちと共に矢内原忠雄(2-2-1-19)の聖書講義に参加。忠子は個展を開くほどの洋画家。なお田村忠幸は荏原ユージライト勤務、『吉田亀太郎追憶集 東北伝道開拓記』(2005)を編集出版した。田村義也は岩波書店の雑誌「世界」編集長、装丁家。田村明は横浜市企画調整局長、まちづくりの権威として法政大学教授。田村千尋は三共の医薬研究員を務めた。
*「フィリピ書」とは、「ピリピ書」「ピリピ人への手紙」ともいわれる新約聖書中の一書であり、ピリピ人の教会にあてたパウロの獄中書簡の一節である。獄中書簡であるにもかかわらず信仰による義への確信が一層強く、キリストの再臨と自らの復活を願う信仰の喜びにあふれているところから「喜びの書簡」とも呼ばれている。
*吉田亀太郎の遺髪を納めた墓が仙台・北山キリスト教墓地にもある。