佐賀県神埼郡西郷村(神埼市)出身。本名は源次郎。1890(M23)4歳の時に一家は長崎県佐世保市に移る。
1899(M26)13歳の時に、ミッションスクール東山学院に学ぶが中退し、1900 佐賀工業学校金工科(機械科)に入り直した。英語が得意で、この頃より小説など原書を読んでいたそうだ。卒業後、佐世保海軍工廠で働くが、向上心が高く上京し、'06 早稲田大学文学部に入学。しかし、同年末、徴兵検査で合格したため、志願兵として対馬要塞鶏知(けち)砲兵大隊に入隊。翌年、見習士官として重砲兵大隊に入り、陸軍砲兵少尉に任官。
'09 対馬での兵役を終え、早稲田大学に復学。文芸協会に入り、島村抱月と坪内逍遥を師事。「吉田絃二郎」のペンネームは坪内逍遥によって命名されたものである。'11 早稲田大学文学部英文科を卒業。同年、明枝(同墓)と結婚。
'14(T3)島村抱月の推薦で、対馬の練兵時期を描いた短編小説『磯ごよみ』、'17『島の秋』を発表し文学的地位を確立した。人生の悲哀、生の寂寥感を詠嘆的抒情でとらえた陶酔的美文は名文として一世を風靡した。後「早稲田文学」や「ホトトギス」に作品を発表する。
'15 母校の早稲田大学の英文学講師、'24 教授に就任。'34.3(S9)まで早稲田大学教授を18年間務めた。教え子には井伏鱒二らがいる。教育者の傍ら創作活動も継続し、教授職を退職して以降は作家活動に専念。
文筆家として大正時代に刊行した著書、'15(T4)『タゴールの哲学と文芸』をはじめとして 30 数種の著書に及び、中でもその感想集は多くの人々に愛読され、『小鳥の来る日』は 200 版を重ねた。また史劇『大阪城』も好評を博した。
小説・随筆・評論・児童文学・戯曲・翻訳とその文筆活動は大正後半から昭和初期まで、人気ある流行作家として注目を浴びた。数多くの作品が中等教育の教科書に採用され、'31(S6)より吉田絃二郎全集(全18巻)、吉田絃二郎童話全集(全5巻)、'37 より吉田絃二郎選集(全8巻)と、吉田絃二郎感想集(全10巻)が刊行され、著作集 236 冊を数えた。
'37.7.1 妻の明枝を亡くし、その悲しみを超え、文筆や講演活動に精力的につとめていたが、'41.12 太平洋戦争が勃発し、執筆の制約を受ける。戦後は旧作の復刻、新作発表を行う。'52 佐世保市より市制施行50周年を記念し市歌選定の相談を受け校定をつとめた。'56 少年少女小説『山はるかに』の最終篇が絶筆。享年69歳。
<コンサイス日本人名事典> <日本史小辞典> <「吉田絃二郎の生涯」郷土誌 新郷土(昭和28年3月号)>
*墓所には正面に2基、右側に2基、吉田絃二郎の墓の右と斜め前に小さな地蔵尊が建つ。正面和型「吉田絃二郎 / 妻 明枝 墓」、裏面「昭和十三年九月建之」。右面は吉田絃二郎の戒名・没年月日・享年が刻み、戒名は二絃院索譽暢發法音居士、享年は七十一と刻む。左面は妻の明枝の戒名・没年月日・享年が刻み、戒名は清光院芳譽明枝大姉、享年は四十九と刻む。左側に「吉田家之墓」、裏面は「平成七年十一月吉日 吉田馨 建之」。右面が墓誌となっており、養女の吉田なつ(H7.10.2没)、夫の吉田馨(H26.7.20没)が刻む。墓所右側には吉田絃二郎の両親の墓、和型「眞光院超譽榮達居士 / 慈光院澄譽龍馨大姉」、裏面「昭和十三年九月建之」、右面に「吉田榮作 大正十四年十二月八日歿 享年八十五 / 妻 龍子 大正十年五月十四日歿 享年七十四」と刻む。その右側に並んで明枝の母の前田好子を祀った宝篋印塔が建ち、正面「皇好院妙壽日類大姉 / 皇好院有縁之諸精霊」、裏面「昭和十三年九月建之」、右面「前田氏好子 / 大正十二年三十日歿 享年七十四」と刻む。墓石の刻みより、明枝が亡くなったことを機に、その翌年に多磨霊園に吉田家の墓所を整え、絃二郎と明枝の親の墓石も一緒に整え(改葬)建之したことがわかる。
*妻の明枝は「吉田明志女」という名で俳人として活躍した。絃二郎と明枝の間には子に恵まれなかったため、養女 なつ(同墓)を迎えている。
*静岡県伊豆市にある修善寺をこよなく愛した絃二郎が、修善寺を一望できる鹿山に分骨墓碑を建てている。絃二郎も没後、分骨された。
*墓所に近いバス通り添いに「吉田絃二郎 句碑」が建つ。この碑は昭和33年4月21日3回忌の時に吉田絃二郎友の会が建てたものである。
第472回 大正昭和期の流行作家 吉田絃二郎 妻は俳人 吉田明志女 お墓ツアー
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