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よしだ あきしじょ

吉田明志女

よしだ あきしじょ

1890.9.30(明治23)〜 1937.7.1(昭和12)

明治・大正・昭和期の俳人

埋葬場所: 14区 1種 1側 6番

 東京出身。旧姓は前田。本名は明枝。吉田絃二郎の妻。淑徳女学校卒業。
 祖父で俳人の蹄雪庵 前田伯志(前田國橘:蹄雪庵伯志)にかわいがられ、13歳で宗匠代をつとめた。絃二郎著の『夜や秋や日記』に「明志女句集」がある。享年46歳。
 静岡県伊豆市にある修善寺をこよなく愛した夫の絃二郎が、修善寺を一望できる鹿山に分骨墓碑を建てている。絃二郎も没後、分骨された。
 吉田絃二郎との間には子に恵まれなかったため、養女 なつ(同墓)を迎えている。

<大日本人名辞典>
<講談社日本人名大辞典>


墓所 墓所

*墓所には正面に2基、右側に2基、吉田絃二郎の墓の右と斜め前に小さな地蔵尊が建つ。正面和型「吉田絃二郎 / 妻 明枝 墓」、裏面「昭和十三年九月建之」。右面は吉田絃二郎の戒名・没年月日・享年が刻み、戒名は二絃院索譽暢發法音居士、享年は七十一と刻む。左面は妻の明枝の戒名・没年月日・享年が刻み、戒名は清光院芳譽明枝大姉、享年は四十九と刻む。左側に「吉田家之墓」、裏面は「平成七年十一月吉日 吉田馨 建之」。右面が墓誌となっており、養女の吉田なつ(H7.10.2没)、夫の吉田馨(H26.7.20没)が刻む。墓所右側には吉田絃二郎の両親の墓、和型「眞光院超譽榮達居士 / 慈光院澄譽龍馨大姉」、裏面「昭和十三年九月建之」、右面に「吉田榮作 大正十四年十二月八日歿 享年八十五 / 妻 龍子 大正十年五月十四日歿 享年七十四」と刻む。その右側に並んで明枝の母の前田好子を祀った宝篋印塔が建ち、正面「皇好院妙壽日類大姉 / 皇好院有縁之諸精霊」、裏面「昭和十三年九月建之」、右面「前田氏好子 / 大正十二年三十日歿 享年七十四」と刻む。墓石の刻みより、明枝が亡くなったことを機に、その翌年に多磨霊園に吉田家の墓所を整え、絃二郎と明枝の親の墓石も一緒に整え(改葬)建之したことがわかる。

*多くの人名辞典では生まれ年を1880年とし享年58歳としてるのがほとんどであるが、墓誌には数え49歳没(享年46歳)と刻んでいるため、生年は1890年が正しく人名辞典の誤植と思われる。



第472回 大正昭和期の流行作家 吉田絃二郎 妻は俳人 吉田明志女 お墓ツアー


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