*墓所には正面に2基、右側に2基、吉田絃二郎の墓の右と斜め前に小さな地蔵尊が建つ。正面和型「吉田絃二郎 / 妻 明枝 墓」、裏面「昭和十三年九月建之」。右面は吉田絃二郎の戒名・没年月日・享年が刻み、戒名は二絃院索譽暢發法音居士、享年は七十一と刻む。左面は妻の明枝の戒名・没年月日・享年が刻み、戒名は清光院芳譽明枝大姉、享年は四十九と刻む。左側に「吉田家之墓」、裏面は「平成七年十一月吉日 吉田馨 建之」。右面が墓誌となっており、養女の吉田なつ(H7.10.2没)、夫の吉田馨(H26.7.20没)が刻む。墓所右側には吉田絃二郎の両親の墓、和型「眞光院超譽榮達居士 / 慈光院澄譽龍馨大姉」、裏面「昭和十三年九月建之」、右面に「吉田榮作 大正十四年十二月八日歿 享年八十五 / 妻 龍子 大正十年五月十四日歿 享年七十四」と刻む。その右側に並んで明枝の母の前田好子を祀った宝篋印塔が建ち、正面「皇好院妙壽日類大姉 / 皇好院有縁之諸精霊」、裏面「昭和十三年九月建之」、右面「前田氏好子 / 大正十二年三十日歿 享年七十四」と刻む。墓石の刻みより、明枝が亡くなったことを機に、その翌年に多磨霊園に吉田家の墓所を整え、絃二郎と明枝の親の墓石も一緒に整え(改葬)建之したことがわかる。
*多くの人名辞典では生まれ年を1880年とし享年58歳としてるのがほとんどであるが、墓誌には数え49歳没(享年46歳)と刻んでいるため、生年は1890年が正しく人名辞典の誤植と思われる。