群馬県出身。かつては苗字帯刀を許されるほどの家柄であった。種二が物心ついた頃には秩父騒動より衰退し貧農に没落。
父の山崎宇太郎は小百姓であった。なお、種二は山崎家13代目当主。
1907(M40)岩平村小学校高等科2年修了。翌年、16歳で上京し、深川の回米問屋山繁商店に入店し奉公。
小僧をしながら二十余りの米倉の屑米を集め、鶏二十羽ほど飼う。その卵を一個一銭で売ったり、ネズミを捕まえ交番で一匹二銭で買い上げてもらったりして、貯えた小銭で米や株の相場を張り、米殻取引に通じ大儲けした。
1920(T9)暴落では、虎の子の3万円(現在の価値で1千万円以上)を失うが、ここで相場に「売る」「買う」の他に「休む」があることを学ぶ。
'24独立を果たし、山崎種二商店を創設。米相場において「売りの山種」で盛名を馳せる。1933(S8)株式市場に進出。
米とは逆に「買いの山種」で基礎を固めた。'39米穀配給統制法によって米穀商品取引所が廃止されると、株式相場に転進し、不況を見越して売りで勝負をするも損を重ね廃業寸前まで追い込まれる。
しかし、2・26事件が起こり逆転勝利。当時の金額で500万円を稼いだ。これにより「売りの山種」の異名をとる。
'40辰巳倉庫(ヤマタネ)を創業。株式にも乗り出し、'44(S19)山崎証券(SMBフレンド証券)を設立し、自ら社長に就任。
戦後は「買いの山種」として成功をおさめ、兜町の相場師として知られた。東京証券取引所理事、全国米殻商組合会会長などを務めた。
また明治以降の近代日本画の収集に努めた。それとともに横山大観・川合玉堂(2-1-13-8)・上村松園・小林古径・竹内栖鳳をはじめとする日本画の大家との親交も重視。
その一人横山大観より「金もうけされるのも結構だが、この辺で世の中のためになるようなこともやっておいたらどうですか」と言われたことが契機となって、'66(S41)に近・現代日本画専門の山種美術館を開設し館長となる。
安宅コレクションの速水御舟作品の一括購入、奥村土牛作品の収集など、コレクションは質・量ともに比類のないものである。
その他にも、儲けた私財で郷里に橋をかけたり、富士見高等女学校の運営を引き継ぎ、深井鑑一郎を校長を招請し、後に城北中学校・高等学校を開校するなど女子教育のサポートをした。
自伝『そろばん』(1972)がある。 また城山三郎が著した伝記小説「百戦百勝 働き一両・考え五両」は種二をモデルにしたものである。享年89歳。