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やまざき たねじ

山種二

やまざき たねじ

1893.12.8(明治26)〜 1983.8.10(昭和58)

大正・昭和期の相場師、実業家(山種証券)

埋葬場所: 20区 1種 51側 1番

 群馬県出身。かつては苗字帯刀を許されるほどの家柄であった。種二が物心ついた頃には秩父騒動より衰退し貧農に没落。 父の山崎宇太郎は小百姓であった。なお、種二は山崎家13代目当主。
 1907(M40)岩平村小学校高等科2年修了。翌年、16歳で上京し、深川の回米問屋山繁商店に入店し奉公。 小僧をしながら二十余りの米倉の屑米を集め、鶏二十羽ほど飼う。その卵を一個一銭で売ったり、ネズミを捕まえ交番で一匹二銭で買い上げてもらったりして、貯えた小銭で米や株の相場を張り、米殻取引に通じ大儲けした。 1920(T9)暴落では、虎の子の3万円(現在の価値で1千万円以上)を失うが、ここで相場に「売る」「買う」の他に「休む」があることを学ぶ。
 '24 回米問屋「山種二商店」として独立開業。昭和初期には堅実なサヤトリ商法をもとに莫大な取引量を扱う。'33(S8)政府が米の買い上げに踏み切り米の自由売買ができなくなると、証券業進出を素早く決断して「山証券」を創業。そして不況を見越して売りで勝負をするも損を重ね廃業寸前まで追い込まれたが、2・26事件が起こり逆転勝利。当時の金額で500万円を稼いだ。昭和初期の1円は現在の4000円の価値であるため、単純計算で200億円稼いだことになる。これにより「売りの山種」の異名が不動のものとなる。
 '40 辰巳倉庫(ヤマタネ)を創業。'44 証券会社4社を吸収合併し、社名を「山種証券」と改め社長に就任。戦後は「買いの山種」として成功をおさめ、兜町の相場師で知らない人はいない程の有名人となる。東京証券取引所理事、全国米殻商組合会会長などを務めた。
 また明治以降の近代日本画の収集に努めた。それとともに横山大観・川合玉堂(2-1-13-8)・上村松園・小林古径・竹内栖鳳をはじめとする日本画の大家との親交も重視。 その一人横山大観より「金もうけされるのも結構だが、この辺で世の中のためになるようなこともやっておいたらどうですか」と言われたことが契機となって、'66(S41)に近・現代日本画専門の山種美術館を開設し館長となる。 安宅コレクションの速水御舟作品の一括購入、奥村土牛作品の収集など、コレクションは質・量ともに比類のないものである。 その他にも、儲けた私財で郷里に橋をかけたり、富士見高等女学校の運営を引き継ぎ、深井鑑一郎を校長を招請し、後に城北中学校・高等学校を開校するなど女子教育のサポートをした。
 自伝『そろばん』(1972)がある。 また城山三郎が著した伝記小説「百戦百勝 働き一両・考え五両」は種二をモデルにしたものである。'74 勲三等旭日中綬章受賞。享年89歳。

<コンサイス日本人名事典>
<Who's Who 運の研究>
<人事興信録>


*墓石正面「山崎家墓」、裏面「昭和三十八年六月 山種二 建之」。左側に墓誌が建つ。種二の戒名は天壽院殿精山種徳大居士。妻は ふう。長男は早死しているが墓誌に刻みはなく、次男で山種証券を継いだ山富治と富治の妻の弘子が刻む。富治の戒名は龍光院殿点鳳法富大居士。

*山種二の妻の ふう(S37.4.8歿・享年61才)は、群馬県出身の萩原均平の二女。二人の間に3男2女を儲ける。長男は早死。次男は山富治。三男は山種証券取締役・辰巳倉庫社長・山崎学園理事長・山種産業会長を務めた山誠三(1927-2011:妻は森永製菓会長の森永太平の長女の初恵)。長女の繁子は通商産業事務次官などを務めた今井善衛に嫁ぎ、二女の貴美江はJR東日本の初代社長となった住田正二に嫁いだ。

*山富治の妻の弘子(H22.1.1・享年77才)は、三楽(メルシャン)社長の鈴木三千代の二女。鈴木三千代は鈴木商店こと味の素創業家の家柄。

*山種証券は証券各社の合併により、さくらフレンド証券、SMBCフレンド証券を経て、現在はSMBC日興証券となっている。



第259回 相場師 山種証券創業者 売りのヤマタネ 山種二 お墓ツアー


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