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やまこし あきまさ

山腰明将

やまこし あきまさ

1890(明治23)〜 1951.4.16(昭和26)

大正・昭和期の言霊学者、陸軍軍人(少佐)

埋葬場所: 6区 2種 22側

 書道神代文字研究家の山腰弘道・美志子(共に18-2-12)の三男。父の弘道は旧尾張藩士、昭憲皇太后付きの書道家。 明治天皇と昭憲皇太后は、宮中賢所と皇太后が一条(藤原)家からもたらした和歌三十一文字を作る心得を書いた古書の中の言霊布斗麻邇に関する文献に基づいて、言霊言の葉の誠の道の研究をしていた。 弘道は天皇、皇后両陛下の言霊学研究のお相手を勤めた。 「古事記」の神代の巻に出て来る神様の名前がそれぞれアイウエオ五十音の一つひとつと結び合わされていることから、アイウエオ五十音言霊の学(まなび)の研究ともいう。 弘道は皇室の血統である大石凝真澄と親交があり、言霊学研究を明治朝廷で行なった。 明治天皇の崩御後、その言霊学研究の流れは大正天皇には伝わらず、民間に流出、その正統は弘道の子である明将に受け継がれた。
 明将はこの時、陸軍(陸軍少佐)に属していたが、軍籍を継続しながら、大正・昭和と言霊学研究を続けた。並行して竹内文献研究者としても活動をした。 明生会を発足し、主な門下生に、小笠原孝次、小川栄一、斎藤直繁、高橋健助らがいる(小笠原孝次は明将没後に研究を受け継いだ人物)。 明将は「言霊布斗麻邇の学は元来、日本国の天皇となるお方が勉学習得すべき学問であり、時到れは天皇に復命(かえりごと)する為に勉強しておる」と門下生に伝えていたという。
 1940(S15)3月2日より週一回、全十回にわたり、東京築地の海軍将校のクラブ、水交社に於て、日本の皇族方、陸海軍の大将・元帥、政府高官、情報局長、警視総監等日本国の上層部の人々を前にして「言霊」と題した講演を行なった。 当時日本は三年間にわたり隣国支那(中国)と戦争状態にあり、その上、外交・軍事・経済的にアメリカ、イギリス、オランダ三国より圧迫を受け、このまま推移すれば一触即発の世界相手の戦争に突入必至の緊迫した国状にあった。 このような時代背景であったため、上層部は明治天皇より始まった「わが日本肇国の根本原理、アイウエオ五十音言霊布斗麻邇」の学問を研究している明将から話を聞くことで、大東亜共栄圏経営の上に言霊の活用を意図できないものかと期待したのである。 内閣総理大臣を務めた林銑十郎(16-1-3-5)をはじめ多くの上層部たちが講演を視聴後、言霊研鑽に努めたといわれる。
 '51自動車事故により死去。永年にわたり研究した言霊学に関する多量の資料も事件に巻き込まれ全部焼失した。

<『古事記と言霊』島田正路など>


側面

*墓石は和型「山腰明將家之墓」。右面が墓誌となっており、明将、兼春、ゆき の戒名と没年月日が刻む。明将の戒名は王眞院十位明將居士。兼春(S28.1.29歿)は明将の長男で戒名は慈城院釋兼春居士。妻はゆき(行年101才)。裏面は「昭和三十四年九月 山越ゆき 山越明將先生門人 建之」と刻み、続けて「昭和三十四年八月 元海軍大将 八十一翁 山本英輔之書」と刻む。左面は明将の略歴や明治天皇と昭憲皇太后が学ばれた言霊学に関してのことや、長男の兼春が銀行家であったことが刻む。

*言霊学(げんれいがく:ことたまのまなび)は、天皇付きの書道家であった父の山腰弘道から、山腰明将に受け継がれ、明将急逝後は、小笠原孝次、島田正路へと継承され現在に至る。明治天皇の御製(天皇の自作和歌)は約93,000首を超える。代表的な『言の葉の誠の道』の和歌は、「聞き知るはいつの世ならむ敷島の大和言葉の高き調べを」「しるべする人をうれしく見出てけり我が言の葉の道の行手に」「天地を動かすはかり言の葉の誠の道をきはめてしかな」がある。言霊学は人間の心とその操作法を余すことなく解明し尽くした学問である。

※明将のヨミを「めいしょう」とする文献も多い。また没年を1949年とするのもあるが、墓石には昭和26年(1951年)と刻む。



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