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やまこし ひろみち

山腰弘道

やまこし ひろみち

1856(安政3)〜 1921.9.17(大正10)

明治・大正期の書道家、言霊学者、選書奨励運動家

埋葬場所: 18区 2種 12側

 尾張国(愛知県名古屋市)出身。旧尾州藩士の山腰喜明の長男。9歳のときに藩主の近侍となり、その傍ら藩黌明倫堂において漢字を修めた。また武術を講じ、書を村井鍬蔵に学んだ。尋ねて京都江戸の間に奔走し、藩主国老の秘密公用を勤め、1868(M1)勤皇の故を以て賞禄を賜う。1871(M4)英学を修める。
 1872 名古屋県庁に出仕。その後、浜松、三重、奈良、島根の各県に歴任し、1888(M21)より東京に移り公共事業に尽くす。菱淵・木庵の書風に親しみ、先年支那漫遊。王義之などの研究をした。名流の知遇を受け、1890(M23)大日本選書奨励会を創立し会頭となった。
 書家の活動に関して、『大正過去帳』では「書道のために前後三一年尽力す」と書かれている一方で、書道雑誌『筆之友』では「弘道先生は書家ではないが選書奨励会の中心で、いわば同会活殺自在の権を握る。したがって書界に名をほしいままにしている」と記されている。
 大日本選書奨励会は発足した年以降、毎年上野公園博物館管轄館に展覧会を開き、その第四回後、皇后陛下、皇太子殿下行啓の節御説明の重任に当たる。1910皇太子、同妃殿下御同列行啓を辱うし多年斯道の興隆に力め熱誠を以て稱せらる。
 1895(M28)第四回内国勧業博覧会を最後に、明治期の博覧会に於いて書部門は設置されておらず。さらに当時の書の分野には公募展が存在しなかった。よって公募展として機能していた選書展覧会は当時の書家たちにとって大きな意義を持つ場であった。そのような背景もあり多くの書家が出品したことで、1895『三体今世筆跡名鑑』(第一集:64名)、1898『三体今世筆跡名鑑』第二集(82名)を刊行。次いで同年『明治書画伝』を刊行した。
 1907(M40)文部省主催の美術展覧会が創設され、これに伴い、書道界では書の文展加入を求める上申書提出の運動が展開された。そこで文部省へ文展加入の請願書を提出し新しい団体を結成する事を決める。これが後の日本書道会の母体を形成することになる。この新団体結成に向けて弘道の他、中根半嶺、西川春洞、澤村蔵六、久志本梅荘、野村素軒、渡邊沙鴎の七名が発起人となる。しかし、当時の文部大臣の牧野伸顕に上申したが受け入れられなかった。書が「美術として本来の待遇」を受けていないと感じていた書家たちは、書の奨励を望む運動を起こしていく事になる。
 文展に書部門の設置が否決され、日本書道会は「書道会」の名称で書道の振興を目的として発足(1907)。翌年、弘道は幹事に任命され中心的な存在となる。'11(M44)以降、展覧会を開催。実務的な活動を担った。
 日本書道会は結成後、文展や博覧会への書部門設置運動の中心を担うが、弘道は政界にパイプを持ち、美術から書を排斥しようという傾向が強い美術界に書の奨励に尽力し続けた。明治期にはそれは果たせなかったが、大正期に第二回東京勧業展覧会に書部門が設けられ、これを契機として東京大正博覧会の書部門設置を成し遂げた。なお書も美術であると国が認めることになるのは、昭和の終戦後の日本美術展覧会に至ってようやく第五科「書」が設置されるまでの時間を要する。
 神代(じんだい)文字の研究家であり言霊学者の顔も持つ。言葉が心(霊)に直結するという「言霊」の考えは「万葉集」の時代以前よりあり、それを体系的に捉え始めたのが江戸時代。そして明治期になり弘道が「古層和語圏」へのアクセスを意識的に行い、日本語を構成する五十音各音の持つ潜在的意味や日本人の精神性や霊性との関りを、ある種のエネルギーとして把握しようとする言霊学(げんれいがく:ことたまのまなび)として発展させた。
 明治天皇と昭憲皇太后は、宮中賢所と皇太后が一条(藤原)家からもたらした和歌三十一文字を作る心得を書いた古書の中の言霊布斗麻邇に関する文献に基づいて、言霊言の葉の誠の道の研究をしていた。弘道は天皇、皇后両陛下の言霊学研究のお相手を勤めたとされる。弘道没後は、息子の山腰明将(6-2-22)に引き継がれ、その門下の小笠原孝次、島田正路、七沢賢治へと継承された。息子の山腰明将の著作『言霊』の中で、編者の加津間広之は、弘道は皇太后付きの書道家であり、天皇・皇后の「言霊学研究」の相手を務めていたと記されている。ただし『明治天皇紀』には弘道の名前は登場しないため真意は不明である。

<大正過去帳>
<現代人名辞典紳士録>
<「明治期における書道団体の動向」前川知里 など>


墓所

*墓所内に3基建つ。正面墓石「山腰弘道之墓」、右に並び和型「山腰家之墓」、左側手前に「秋田家之墓」。「山腰弘道之墓」の裏面「故人 尾州藩士 喜明 長男 而 安政三年 生焉 幼而 勤王志篤後 移東都 明治二十三年設立 大日本選書奨勵會 専念 謀書道振興 重年三十有二 厥間着 大正正字 齢六十又六卒實 大正十年九月十七日也 大正十一年九月 妻 山腰美志 建之 永代祠 堂科 金壹百圓也納」と刻む。「山腰家之墓」の墓石左面は墓誌となっており、長男の山腰利通(S34.11.13歿)から刻む。利通の長男は山下汽船副社長を務めた山腰嘉正(H9.3.17歿)。

*山腰弘道と美志(美志子)との間に4男を儲ける。長男は利通、三男は明将、四男は道文。次男朝克養子の繁次郎は分家した。


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