東京出身。高祖父は江戸時代の儒者・和算家の山川孫水(1789-1866)。曽祖父も儒者・和算家の山川慎蔵(1834-1900)。祖父は内科学者の山川章太郎(同墓)。父は内科学者の山川邦夫(同墓)の長男。叔父は生化学者・東京大学名誉教授の山川民夫。従姉弟に科学ジャーナリストの大熊由紀子。
武蔵高校を経て、慶應義塾大学医学部に現役合格をしたが、父含め親族全員が東大医学部出身であったため、世間体を気にする母親のために浪人し、翌年、東京大学理IIに入学。3年生から理III(医学部)に転部。1976(S51)東京大学医学部卒業。
横浜の磯子中央病院の内科医として勤務。緊急病棟の激務を経て、内科部長などを務めた。医師としての考え方は、物事の曖昧さを排除し、事象をクリアカットに定義し、分からない部分は不明と定義する考え方を教わって以降、医師が曖昧に説明すると、混乱し困るのは患者だからと、患者にもクリアカットに説明できるように努めたとのこと。また泌尿器科医の苦手とする超音波エコー検査を得意とし、一万人以上のエコー検査を行なった。
臓移植普及会理事長、日本腎臓移植ネットワーク専務理事を歴任するなど腎臓移植医療の専門家として活躍。現在の日本に正式に存在する「臓器移植ネットワーク」の開発者でもある。腎臓移植の延長線上に、臓器移植ネットワークを作った。当時、出世や金儲けのために主導権を奪い取ろうと、移植手術を行なっていた総合病院・有名病院・大学病院の教授・院長・医師たちの争いの中で、全くシガラミのないネットワークとセンターを仲間たちと作ることに尽力。臓器移植ネットワークの初代総裁になるべき人物であったが、完成したのを確認してから、ゴタゴタの責任を全て持って在野に降りた。
2005(H17)労働衛生コンサルタントの道に転身し、ソニーグループの健康管理部の産業医となる。自身が救急医療の現場で非常に過酷な長時間労働を続けていた経験から、長時間労働対策の改善を呼びかけた。共同通信の産業医としても活動し、「過重負荷面談」などを担当。安全衛生委員会や編集改革委員会にて、「休日休暇のまとめ取り制度」や「長時間労働抑制等の指針」を策定し仕事の見直しを推進。また「タクシー・ハイヤー使用基準の柔軟化」の提唱、本社に1台しかなかった「自動体外式除細動器(AED)」の増設などを実現させ、長時間労働解消や安全衛生対策に尽力した。
不整脈で入院精査をし、亡くなる直前に回復し仕事に復帰していたが、急性心不全のため東京都内の自宅で急逝。突然死であった。享年58歳。二日後の葬儀は大圓寺にて執り行われた。