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つざき なおたけ

津﨑尚武

つざき なおたけ

1882.5.24(明治15)〜 1962.8.29(昭和37)

大正・昭和期の政治家

埋葬場所: 12区 1種 7側

 鹿児島県大隈郡小根占村(肝属郡南大隅町)出身。下村尚論の三男として生まれ、津崎家の養子となった。
 七高を経て、1909(M42)東京帝国大学法科大学政治科卒業。高等文官試験に合格し、内務省に入省。長野県属 兼 警視を経て、27歳で更級郡長として着任した。
 教育文化産業経済交通衛生等の各般にわたる革新的郡行政を推進。また郡立更級農学校の興隆に貢献。とくに交通不便に加えて千曲川河畔に拠る水害に伴う郡役所移転問題を現在地に解決をみたのは先見的英断と政治的手腕の賜物と伝えられる。このように長野市の篠ノ井の生みの親として尽力したことで「津崎町」として名前も残る。長野県理事官学務課長、長野県視学官を歴任。
 '15(T4)官を辞して渡米し、ニューヨーク土地建物株式会社で勤務。翌年帰国し、東亜産業株式会社の取締役となった。
 '20.5.10(T9)第14回衆議院議員総選挙に鹿児島県6区から立憲政友会公認で出馬し初当選。'46(S21)公職追放されるまで、立憲政友会から政友本党、立憲民政党、立憲政友会と渡り歩き、第21回衆議院議員選挙に至るまで7回当選した。当時、鹿児島では「西に床次あれば東に津﨑あり」と称されたほどの人物。床次とは床次竹次郎(12-1-17-18)のこと。'39.1.5 平沼騏一郎(10-1-1-15)内閣では厚生政務次官を務めた。大政翼賛会中央協力会議員、国際開発協会理事長、人口食糧協会会長などにも就いた。
 戦後は公職追放となり、'51追放解除。'52.10.1 第25回衆議院議員総選挙に日本再建連盟から立候補したが落選した。他に海外協会中央会副会長、満洲移住協会理事、海外同胞中央会理事、大東亜親善協会副会長などを務めた。著書に『想と相』(1925)、『どうなるか満州国』(1932)がある。正4位勲2等。享年80歳。長野市篠ノ井支所に胸像が建つ。

<政治家人名事典>
<篠ノ井にある津﨑尚武胸像の略歴など>


墓所

*墓石は洋型「津﨑家」、裏面「昭和三十六年十二月建之 津崎尚武」。左側に墓誌があり、「正四位 勲二等」と俗名と没年月日、享年が刻む。妻は千代。長男の津﨑武司(H7.5.4没・行年72歳:同墓)は日本航空調査部長を務めたパイロットで、『国際航空と空の自由』『日本の空港』など航空関係の著書も多数出版している。武司の妻は俊子。


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