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つのすえ りょうすけ

津末良介

つのすえ りょうすけ

1876.12.11(明治9)〜 1950.1.3(昭和24)

明治・大正・昭和期の弁護士、政治家、実業家

埋葬場所: 7区 1種 4側

 大分県大分郡滝尾村(大分市)出身。第五高等学校を経て、1904(M37)京都帝国大学法科大学独法科を卒業。司法官試補となり大分地方裁判所に勤務したが、'05 辞して、同地にて弁護士事務所を開所した。和解専門の弁護士として活躍する。'08 大分弁護士会長に選出される。'11 大分市参事会員に選ばれた。
 '12.5.15 第11回衆議院議員総選挙に大分県の選挙区から無所属で出馬し初当選。36歳で代議士となる。木下謙次郎に従い新党運動に参加し、立憲同志会の創立に参画。'15.3.25(T4)第12回衆議院議員総選挙に大分県の選挙区から立憲同志会所属で出馬し連続当選。'16.10.10 立憲同志会解散で後継政党となった憲政会に属す。'17.4.20 第13回衆議院議員総選挙に大分県の選挙区から憲政会所属で出馬し連続三回目の当選を果たした。在籍中に憲政会県支部の分裂もあり憲政会を離党し、'17.10.15 二度目の新党運動で発足した新政会に参画したが、成果を挙げられず内部分裂で離党。
 '20.5.10 第14回衆議院議員総選挙に大分1区から無所属で出馬した。この選挙から、有権者の資格が直接国税10円以上を納める男子から直接国税3円以上を納める男子に緩和され、有権者数は前回選挙に比べ倍以上に増加して300万人を突破した。また選挙区制度が大選挙区制から小選挙区制に移行して初めての選挙となった。大分1区には第1回衆議院議員に当選し大隈内閣で逓信大臣も務めた経験があり、立憲同志会や憲政会で共にした大先輩の大御所の箕浦勝人との現職同士の一騎打ちとなる。結果は、箕浦が960票、津末が796票、164票差で落選した。これを機に政界を引退した。
 玖珠金山株式会社社長となるも、鶴成金山で大失敗。佐賀関精錬所の誘致、大分製氷株式会社監査役、山東省招遠鉱業株式会社社長などを務めた。渋谷吉祥寺電鉄の発起となり、株で成金になるも、棉糸で破綻。再び七転八起で金山経営を行う。渋谷吉祥寺電鉄を小田急の利光鶴松(9-1-2-7)に讓る。
 脳溢血にて逝去。享年72歳。没後、'52.1 津末良介翁伝記編纂委員会の編集で『津末良介』が刊行された。

<現代日本の政治家>
<帝国大学出身名鑑>
<津末良介翁小傳>
<人事興信録>


*墓石前面「津末家墓」、裏面「昭和七年 良介 建之」。右側に墓誌が建つ。津末良介の戒名は常光院殿本源自性大居士。

*津末良介は高等学校で結婚したが離婚し、賢と再婚している。長男の津末宗一(H1.9.5歿・88才:同墓)は三菱銀行に勤めた銀行家、菱華産業社長、証券団体協議会常任委員長などを務めた。宗一の妻は弘世保三郎の長女の えひ(英子:H9.1.17歿・89才:同墓)。宗一の長男は地球科学者の津末昭生(同墓)。二男は母方の弘世家に養子となった弘世酉二(1933-2019.3.25)。弘世酉二は父と同じ三菱銀行に入り、菱華産業に移って社長を務めた。なお、酉二の妻の道子の祖父は堤定次郎(4-1-31-8)、堤直温の長女。

*津末良介は「津末」のヨミを「つのすえ」としているが、孫の津末昭生は「つすえ」としている。

*津末家の代々の墓は郷里の万寿寺(大分県大分市金池町)にあり、分骨されている。


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