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とりい たけじ

鳥居武二

とりい たけじ

1898(明治31)〜 1959.12.22(昭和34)

昭和期の教育者、倫理研究所四天王

埋葬場所: 3区 1種 31側

 長崎県対馬出身。商人の道を歩む。1932(S7)熊本で6歳年上の丸山敏雄(3-1-34)と出会う。以来、その人格に傾倒し、物心両面において助けられる。絆は年々深まり、敏雄が逝去する日まで、献身的に師事し続け、倫理研究所では「忠僕の模範」と称された。丸山敏雄の内弟子四天王のひとりである。なお、他の内弟子四天王は青山一真、宇宿五郎、福浦豊水。
 1945夏、丸山敏雄は東京世田谷区深沢にあった三菱工業株式会社の訓育部邸宅の管理人を務めていた。終戦後、'46「新世会」を結成し、生活の改善と道義の昴揚を揚げる倫理運動を創始する。敏雄の身辺には、その事業を内から支えようとする若い人たちが集まっていた。丸山は早々、鳥居を同志として迎え入れようとした。しかし、当時、鳥居は大分バス株式会社の営業所長に従事していた。鳥居は丸山に付いて行きたいという思いはありつつも、生活基盤もあったため即決ができず悩んでいたところ、丸山は迷う鳥居と会社側を説得するため、東京から大分に赴き、鳥居の上司に談判。結果、会社側は丸山の熱意に理解を示し、鳥居の転出が承諾される。この一件で、鳥居は益々丸山に心酔するようになった。
 東京都武蔵野市の倫理運動の発祥の地である高杉庵の近くに居所を構え、二年遅れて倫理研究所に合流。以後、草創期の倫理運動のリーダーとして貢献。丸山が体調が悪いときは献身的に寄り添いケアをした。
 '51.12.14 丸山没後は、その意志を受け継ぎ、キク夫人や二代目の丸山竹秋を支えた。'60 自伝『歩みこし道』を刊行。肝臓がんのため武蔵野赤十字病院にて逝去。没後、丸山敏雄の孫の丸山敏秋が著した『丸山敏雄と鳥居武二 : 師弟の深い絆と交わり』がある。

<「幸せになる方法を発見した人 丸山敏雄伝」丸山敏秋>


*墓石は和型「鳥居家之墓」、右面「昭和三十三年二月 建之」、左面に書、裏面が墓誌となっており鳥居武二から刻みが始まる。

*師の丸山敏雄の墓所はすぐ近くにあり、社団法人倫理研究所物故職員墓所は鳥居家の墓の真裏に建つ。


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