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丸山敏雄 |
まるやま としお | |
1892(明治25)〜 1951(昭和26) | |
大正・昭和期の社会教育家、倫理研究所初代理事長 | |
埋葬場所: 3区 1種 34側 | |
合河天和出身。農業丸山半三郎の4男。16才で岩屋尋常小学校の代用教員。翌年小倉師範学校に入学。在学中、足立山麓の黄檗禅寺福聚寺で座禅を組んだりして、級友から「孔子丸山」というニックネームをつけられる。 また、書は西川萱南先生から学び、毎日臨書したとも伝わる。師範学校卒業後、豊前市八屋小学校に赴任し、神崎キクと知り合い結婚。 その後、広島高等師範学校に入学し、国史を専攻。卒業後は福岡県立築上中学校、中学明善校、長崎女子師範学校教頭に就任、さらに学問探究のため広島文理科大学に再入学。 日本古代史の研究とともに、西晋一郎博士の影響を受けて哲学、倫理の研究に精進した。倫理への道を進む転機となったのは、「ひとのみち教団」での活動と、活動の最中に不敬罪で逮捕されるという一事である。 入団は、古典における奇跡、奇瑞の実証的研究を目指してのものであったが、「捨て身滅我の修行」を求められ、親子の縁を断たねばならないという教団の掟が倫理に深く傾倒する転機となったとされている。 釈放後、大阪堺市で秋津書道院を創設し書道教授を始め、のち東京で古代史や宗教、日本の精神文化の研究に熱中。 終戦後、日常生活の純粋倫理、徳福一致の生活道(純粋倫理)を提唱し倫理運動を始め、翌年、しきなみ短歌会、新世文化研究所(のちの倫理研究所)を創立し、所長に就任した。 雑誌「文化と家庭」(のちの『新世』)の創刊、「万人幸福の栞」を発刊したのもこの頃である。純粋倫理は「純情」を核にして、「明朗」「愛和」「喜働」の実践を提唱している。 昭和26年12月14日、「わが願いたぐいもなけれしみじみと 人類の幸おもふなりけり」という遺詠とともに純粋倫理の究明と実践に捧げた一生を終えた。 <コンサイス日本人名事典>
丸山キク <幸せになる法則を発見した人 丸山敏雄伝 丸山敏秋>
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