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まるやま としお

丸山敏雄

まるやま としお

1892.5.5(明治25)〜 1951.12.14(昭和26)

大正・昭和期の教育者、倫理研究所初代所長

埋葬場所: 3区 1種 34側

 福岡県築上郡合河村天和(豊前市合河町宇天和)出身。農業の丸山半三郎、ぎんの4男。号は竹陵。
 16才で岩屋尋常小学校の代用教員を務める。1913(T2)小倉師範学校を首席で卒業。在学中、足立山麓の黄檗禅寺福聚寺で座禅を組んだりして、級友から「孔子丸山」というニックネームをつけられる。また書は西川萱南から学び、毎日臨書したとも伝わる。教員免許を受け、同.4 築上郡八屋尋常高等小学校(豊前市)に奉職。
 同.7 六週間短期現役兵として歩兵第47連隊に入営。得意の柔道で二級の免状を得る。'16 広島高等師範学校に入学し、ボート部で活躍。'19 長兄の茂治が亡くなり三人の遺児の親代わりになる。'20.3 広島高等師範学校卒業。翌月、父の半三郎が市電から転落して急逝。同.5 福岡県立築上中学校教諭となる。同.7 神崎キク(同墓)と結婚。'21.3 長男の竹秋(同墓)誕生。
 '23 福岡県立中学明善校に転任、地理・歴史・武道を担任する。'25 長崎女子師範学校首席教諭として栄転。担当していた科目は東洋史である。教師として生徒たちに「歴史とは、できごとをいちいち覚える科目ではない。 歴史を通し、人間を、私たち自身を作る科目である」と「歴史で学ぶ」授業を行っていた。また教師をしながら『筑後地方に於ける古代遺蹟の踏査研究』執筆。次いで、'27(S2)『敬神思想と神祇史』『歴史教育と史眼』『国史教材の取扱』『日本建築史要』『日本彫刻史略』を次々と執筆。'28 さらに『豊臣秀吉研究』『国史の特殊性と普遍性』『国体と婦人の使命』『太平記研究』『神皇正統記研究』『勤王思想の発展』を執筆した。同.8 二男の豊樹誕生。
 '29 長崎女子師範学校教頭職を退職し、37歳にして広島文理科大学に入学し、国史学を専攻。恩師の西晋一郎と再開し、倫理哲学を研究。'32 在学中に友人に勧められた「ひとのみち教団」広島支部の教団教師となり、教義を研究し、大学卒業後は教団熊本支部長として赴任。'35 財団法人中野中学校校長となる。'37.2 校長を辞す。同.4「ひとのみち教団」の幹部と共に不敬罪で検挙され、拷問を受ける。そもそもひとのみち教団の入団の動機は、古典における奇跡、奇瑞の実証的研究を目指してのものであったが、「捨て身滅我の修行」を求められ、親子の縁を断たねばならないという教団の掟が倫理に深く傾倒する転機となったとされている。 ひとのみち教団は解散させられたが、戦後にパーフェクト・リバティー教団(PL教団)として復活している。
 '38.5 仮出所。同.10 大阪堺市で秋津書道院を創設、機関誌「秋津書道」を発刊。'38.1 教団に対する反省を記し「上申書」を提出。'42 製作所に勤務する傍ら、日本古代史や宗教の研究に没頭する。戸室製作所の非常勤として、社員教育にあたる。'44.8『奇蹟の研究』刊行。同.12 三菱重工業の世田谷区深沢にある邸宅管理人となり同所に移転。'45『神国意識の復古と実践』『乗示思想の本質と其の危機』『夫婦道』を刊行。
 終戦後、日常生活の純粋倫理、徳福一致の生活道(純粋倫理)を提唱し倫理運動を始める。'46 しきなみ短歌会を創立し、「しきなみ」を発刊。同.12 東京の北多摩小金井町の三菱社宅に移り、「新世文化研究所」を創立し所長に就任した。
 '47.7 終戦後の財閥解体などもあり、三菱を退社。住居を武蔵野市境に移す。この頃より「日本文化をもって世界に貢献しなくてはならぬ」という自覚が高まる。同.9「新世会」を結成。本格的な生活改善運動をはじめる。同.10「文化と家庭」創刊。'48.2 極東国際軍事裁判インド代表のパール判事と会見。同.3 甥の丸山悟の娘の初子を引き取る。同.4 上野池ノ端に「家事相談所」開設する。同.8 初めての単行本『無痛安産の書』発行。同.10 前年に結成した新世会に対して東京都より社団法人の許可がおりる。これにより、同.12 第1回倫理講座開催。'49.1 第1回志友協議会開催。同.3 機関誌「文化と家庭」を「新世」と改題。同.4 武蔵境の自宅において所内早朝講座「朝の集い」が始まる。同.5 第1回倫理講演会開催。同.8『万人幸福の栞』発刊。純粋倫理は「純情」を核にして、「明朗」「愛和」「喜働」の実践を提唱した。
 '50 各種の講座・講演会、および書道・短歌の指導も含め、最も多忙な日々に明け暮れ、特に所員の心境向上会に集中的に打ち込む。一方、原理をはじめとする重要論文の執筆を進め、次々と発表した。'51.1 奇夢を見る。そこで翌月、行く先を誰にも告げず、夫人同伴のみで伊勢神宮を参拝、倫理運動発展のため、一切の苦難を自らが身代わりになるという祈願をする。所員一同に参拝土産を配った。同.5 第1回「春のほがい」を開催する。『育児の書』『学童愛育の書』『作歌の書』を発刊。
 同.10 第5回総会で「人類の朝光」と題して講演を行う。これが最後の講演となった。同日、所名を「社団法人倫理研究所」と改称。同.12.14 「わが願いたぐいもなけれしみじみと 人類の幸おもふなりけり」という遺詠とともに純粋倫理の究明と実践に捧げた一生を終えた。武蔵境・高杉庵において逝去。享年59歳。神田共立講堂において告別式執行。同.12.23 長男の丸山竹秋が2代目 倫理研究所長に就任した。'52.1 遺著『実験倫理学体系』、同.4 歌集『天地』発行。研究所会員の熱願により、御墓所建設委員会が結成され、この多磨墓地に墓所と「丸山敏雄先生頌徳碑」が建之された。同.10 埋葬祭が執行された。遺著『純粋倫理原論』が刊行された。

<コンサイス日本人名事典>
<「幸せになる方法を発見した人 丸山敏雄伝」丸山敏秋>


碑石

*墓石正面「丸山敏雄先生墓」、裏面「昭和二十七年十月五日建之」と刻む。墓所の右側に「丸山敏雄先生頌徳碑」が建っている。左側に妻の丸山キクのパネルが設置されている。

*倫理研究所の教育・研修施設、富士高原研修所の敷地内(静岡県御殿場市印野1383-85)に「丸山敏雄記念館」が建つ。記念館の隣には、丸山敏雄の住居「高杉庵」が移設され、保存されている。また郷里(福岡県豊前市大字天和392)に「丸山敏雄生家」「天和会館」が建つ。

墓所


丸山キク
1891.9.1(明治24)〜1967(昭和42)
明治・大正期の教育者、丸山敏雄の妻
 福岡県築上郡(豊前市)宇島出身。旧姓は神崎。退役軍医の七人兄妹の次女。福岡女子師範学校を卒業後、小学校教諭となる。 1916(T5)三度目の奉職先の八屋尋常小学校にて丸山敏雄(同墓)と同僚となり、敏雄の親友で同じ教諭の清川守雄のすすめで婚約。 しかし敏雄が高等師範学校への進学を志していたため、'20敏雄の卒業を待ち結婚した。結婚と同時に教師を辞す。 '21長男の竹秋(同墓)、'28二男の豊樹を儲ける。'29(S4)敏雄が教頭職を辞して、37歳にして広島文理科大学に進学した際、敏雄に代わり一家を支えた。 その後、'31敏雄のひとのみち教団入信、'37不敬事件での検挙と拘留、太平洋戦争での子供たちへの応召出征、戦後の倫理運動、草創期の困難という激動時期にあって、陰で献身的に敏雄と家族を支えた。

<幸せになる法則を発見した人 丸山敏雄伝 丸山敏秋>


【倫理研究所】
 倫理研究所は宗教法人ではなく(一般)社団法人の民間の教育団体である。事業目的は「純粋倫理の研究並びに実践普及により、生活の改善、道義の昂揚、文化の発展を図り、もって民族の繁栄と人類の平和に資する」としている。主な事業活動は社会教育事業、研究事業、出版、広報事業、文化事業、地球倫理推進事業。中国・台湾・アメリカ・ブラジルなどでも活動している。
 1945.9.3(S20)丸山敏雄は日常生活の純粋倫理、徳福一致の生活道(純粋倫理)を提唱し倫理運動を始める。'46.12「新世文化研究所」創立し初代所長に就任。'47.9「新世会」を結成。'48.10 社団法人化。'51.10 所名を「社団法人倫理研究所」と改称。同.12.14 丸山敏雄逝去。同.12.23 長男の丸山竹秋が2代目倫理研究所長に就任。以降、退任するまで44年間、倫理研究所を率いる。
 '80 倫理法人会発足。'96(H8)竹秋の長男の丸山敏秋が3代目倫理研究所長に就任。'99.7.17(H11)丸山竹秋逝去。2005 家庭倫理の会発足。2013.9.2(H25)倫理研究所は一般社団法人となり、丸山敏秋が引き続き理事長となる。


看板


墓所

*「常居其全」「至誠の〇〇」と刻む墓石(S33.10建之)が二基建つ「社団法人倫理研究所物故職員墓所」がすぐ近くの3区1種31側にある。倫理研究所で職員として活躍され亡くなった方々の名前が刻む墓誌も建ち、二代目理事長の丸山竹秋の刻みも見れる。また墓誌の最後に下記が刻む。「平成二年以降の物故会員功労者の方々に唐纒(からうと)が一杯になったため『芳名録』に記録し、永く保存させていただきます。なお『芳名録』は石塔左横の『物故会員功労者芳名録収納庫』に保管してあります」

*丸山敏雄の内弟子で倫理研究所四天王のひとりである鳥居武二(3-1-31)が眠る鳥居家の墓は倫理研究所物故職員墓所の真裏に建つ。


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