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とき くまお

土岐熊雄

とき くまお

1868(明治1)〜 1904.8.27(明治37)

明治期の陸軍軍人(少佐)、日露戦争遼陽会戦戦死者

埋葬場所: 13区 1種 27側

 大分県出身。東京に出て、1885(M18)文武講習館(翌年より成城学校と改称・現在の成城中学校・高校の前身)に入る。文武講習館の創立当初は陸軍士官学校・陸軍幼年学校への全寮制予備校として、全国から集う陸軍軍人志望者に予備教育を施し、数多くの高級軍人を輩出した学校である。のち陸軍士官学校にまなぶ。
 日清戦争に出征。日露戦争にも従軍し、各地で戦功をあげながら、1904.8.24(M37)から始まった日露戦争の遼陽会戦を戦う。
 遼陽会戦はロシア軍は15万8,000の兵をもって防御網を展開し、日本軍は12万5,000の兵で陣地を攻めた戦い。通常陣地を攻める場合、攻撃側は3倍の兵力で行うのが通常であるが、火力・兵力ともに日本を大きく上回るロシア軍に秋山好古隊らが真っ向勝負を行った。正面からの攻撃だけではなく、秋山のロシア軍の横を突く作戦をとる。ロシア軍司令官クロパトキンは豊富な予備兵力を投入し、日本軍は全線で崩壊の危機に立つが、黒木為楨(8-1-2-15)率いる隊が秋山隊よりも更に右を突く攻撃をしたことでロシア軍は驚く。一進一退の攻防であったが、日本軍は夜襲を行うなど大きな犠牲を払いながらも首山堡争奪に成功。クロパトキンは豊富な兵力があったにも関わらず、敵の状況よりも味方を気にして、次の拠点の奉天で立て直すため撤退。日本は兵力が尽き追撃できなかったが辛勝で終わった。死傷者は日本側が2万3500人、ロシア側が2万人あまりにのぼった。この激戦で熊雄は●(石+乍)子溝にて戦死した。享年36歳。

<講談社日本人名大辞典>
<図説 日露戦争など>


墓所

*墓石は和型「土岐家之墓」。右側に墓誌がある。熊雄には戦死と刻む(墓誌には行年38才と刻む)。同墓には陸軍少将の土岐鉾治も眠る。


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