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たずはま ひろし

田鶴濱 弘

たずはま ひろし

1905.8.29(明治38)〜 1991.9.15(平成3)

昭和期のスポーツライター、プロレス解説者

埋葬場所: 10区 1種 15側

 教育者の田鶴濱次吉・柔子(共に同墓)の長男として生まれる。幼少期は忍者に憧れ忍者トレーニング(修行)を独自に行っていたことが、現代のウェイト・トレーニングとなり、旧制中学校時代には筋肉流々で中学生の身でありながら当時オリンピック種目であった「立ち高跳」で1メートル43の日本記録をつくった。さらに「三段跳」「五種競技」の日本代表になるなど、各大学からスカウトが殺到した逸話がる。
 条件が最もよかった早稲田大学に進学し陸上部に入るが、大学在籍のまま旧報知新聞に入社。アルバイトではなく正社員運動部と事業部兼務での入社であった。以降スポーツ・ライター生活50余年が始まる。なお、大学生活は疎かになり、陸上部は幽霊部員、落第を重ね、1932(S7)早稲田大学を卒業した。
 幻の五輪となった「1940年オリンピック東京大会」組織委員会競技部宣伝部が発足すると報知新聞からの派遣として着任。この頃、'32アマレスの父と称される八田一朗が大日本アマチュアレスリング協会の設立をサポートし役員となり兼務。'38(S13)2月から7月にかけて、両方を兼務する立場で、当時の世界アマレス組織への加盟の会議に日本代表役員としてエストニアの会議へ出席をする。同時にオリンピック組織委員会から欧米各国PRの旅にも派遣された。その途上で米国に立ち寄り、沖識名と会う。
 父の次吉がハワイで経営していた「ハワイ中央学院」(第一次世界大戦で米国政府に没収される)の在学生で縁があった日系アメリカ人の沖識名が、この時、プロレスラーとしてNWAハワイジュニアヘビー級王者として活躍していた。大学の先輩でアメリカ帰りの柔道家の庄司彦男からプロレス談義で興味をもったがこともあり本場のプロレス興行を視察。沖を介して、後に力道山の後ろ盾となるサンフランシスコのジョー・マルコビッチ、ニューヨークのMSGのボスでプロモーターのトーツ・モントを紹介されている。なお、沖は後に相撲からプロレス転向した力道山のコーチを務め、日本プロレスで長らくレフェリーを務めた。
 1940年オリンピック東京大会は戦争により中止となったが、戦後「1964年オリンピック東京大会」も組織委員会のメンバーとして活動した。
 戦後、街頭テレビから力道山プロレスが大人気となった。戦前よりプロレスを知っていた身であったが、プロレスを仕事として関わるようになったのは、'51(S26)力道山にプロレス入りを進めたバビイ・ブランズが来日した際に報知新聞で対談相手に選ばれた時からである。この流れから、日本テレビの正力松太郎の知遇でプロレスを盛り上げるためにテレビ解説者をつける案が出、抜擢され、プロレステレビ解説初代解説者となる。
 街頭テレビにリンクし日本最初のプロレス専門雑誌ファイト社を創設(後に大阪新聞に譲渡)して、「月刊プロレス」の創刊。プロレスと併行して日本テレビでボディビル定期番組「男性美の創造」のホスト役をつとめた。これは昭和30年代のボディビル・ブームの火付け役となり、後に三島由紀夫(10-1-13-32)を巻き込み話題をさらった。同時期に日本ボディビル協会を設立、副会長の要職に就いた。その他、日本プロスポーツ会議専務理事、日本スポーツ評論家協会常任理事も務めた。プロレスやボディビルだけではなく、ボクシング、柔道、重量挙げなど、格闘技の普及に携わった。
 '72(S47)ジャイアント馬場が全日本プロレス団体を発足し、日本テレビ系プロレス中継が始まって以来、'85頃までテレビ解説者を務めた。当時週刊ジャンプで連載していた人気漫画『キン肉マン』に出てくる解説者「タザハマさん」のモデルになる。'75.12全日本プロレスが行ったシングルリーグ戦「オープン選手権」の準備委員会の委員を務めた。
 プロレスライターのパイオニア、プロレス評論家の草分け的存在と称され、書き上げた原稿は2万枚以上とされ、プロレスブームを後押しする著書も多く出した。主な著書に世界プロレスシリーズ『血闘と友情の記録』(全5巻)『プロレス血風録』『世界の選手たち』『プロレス総覧』『格闘技スーパー・スター』『プロレス大研究』『プロレス百科』『プロレス面白ゼミナール』『プロレス黄金時代の栄光と暗黒』『プロレス オール強豪名鑑 日本編・世界編』など多数。弟子にプロレス評論家の流智美がいる。享年86歳。

<プロレス オール強豪名鑑 日本編・世界編>
<プロレス血風録などの著者略歴や本人談など>


墓所

*墓所には二基建ち、右側が田鶴濱家の五輪塔。左側に洋型「原家」墓石が建つ。両側にそれぞれの墓誌が建つ。田鶴濱家の墓誌は弘の父の田鶴濱次吉(S36.9.6歿・行年89才・文教院鶴翁恭忍居士)、母の田鶴濱柔子(S8.5.16歿・行年50才)。田鶴濱弘は「ミカエル」という聖霊名。妻はミエ(S60.2.28歿・行年74・聖霊名はマリア)。原家の墓石は右面に「平成二十年九月吉日 原宏 明子 建之」と刻む。娘の嫁ぎ先が墓所を継承したと思われる。

*父の田鶴濱次吉は弘の回顧録より、1914に第一次世界大戦が始まるまでハワイにて「ハワイ中央学院」という日系移民の日本人学校を経営していた。戦争により米国政府により学校を没収されている。1924.7.5〜1932.3.28 新潟県長岡女子師範学校校長など務めた。師範学校校長に就いていることから、官立の教育者であることがわかるが、ハワイの学校は官立であったのか民間であったのかは不明。それ以外の経歴も現在不明。


【ハワイと日系移民(一世)】
 1852ハワイ王国はハワイアンの人口減少から砂糖農園の労働者として外国から移民の受け入れを初め、1864移民局が発足。1881(M14)明治天皇に謁見したカラカウア王が移民を要請し、1885明治政府が正式に認めた「官約移民」を開始。1893ハワイ王国が終焉するまで約2万9千人余りの日本人移民が移住した。
 その後、1898ハワイはアメリカ合衆国に併合され、米国の法律が適用。移民は奴隷と同様とされたことから、1900から1907は自由移民となる。この間、約7万1千人が移住し、ハワイからアメリカ本土への再移住も増加した。1908から1924は呼寄せ移民の時代となり、この間に約6万1千人が来島、総計22万人ほどの日本人がハワイに移民として渡ったとされる。
 自由移民時代になってから、日本と移民事業を行う会社が30社以上設立された。労働者支配の弱体化に怖れたアメリカ人農園経営者が意図的に異移民の対立を企図したり、過酷な労働と生活環境からのストライキが起きたり混乱も起こり、1908日米紳士協約などにより日経移民会社は全て消滅した。そして第一次世界大戦(1914から)の影響によるインフレ化が進行し生活が立ち行かなくなった人が多く出た。この混乱もあり、移民家族は本土に帰国する者も多く出た。田鶴濱家もこの流れで帰国されたと推測する。
 なお、大戦後、再び呼寄せ移民が始まり、再度移住を希望する者も増え、1920(T9)にはハワイの人口の中で日系人の占める割合が全体の42.7%にまでなったが、同年、オアフ島でハワイ史上最大のストライキも起こり、全農園労働者の約77%が参加した。これらの行動が排日運動を加速させ、日系人社会への圧力が強まり、そして、1924移民法成立により日本人のハワイ移住が事実上不可能になった。
 ハワイはアメリカの公立学校であるため英語で授業が行われていた。ハワイの一世の親たちは自分の子どもたちへの日本語教育も熱心であり日本語学校が誕生する。移民の子どもたちは公立学校へ通った後に日本語学校で勉強するようになった。日本語学校では日本の文部省の教科書がそのまま使用され、修身教育も日本と同じように行われていた。


*「週刊プロレス」のライバル雑誌である「ゴング」の生みの親の小柳幸郎(19-1-13-24)も多磨霊園に眠る。

*名前のヨミが「たづはま」「たづるはま」「たつるはま」とするのもあるが、著作物のすべてが「たずはま」としているため、それで統一する。著作物の漢字表記は「田鶴浜」がほとんどであるが、ここでは正式の「田鶴濱」とする。なお、出身地が不明であるが、石川県七尾市田鶴浜町と地名がある。この地の読み方は「たつるはま」である。


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