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おやなぎ ゆきお

小柳幸郎

おやなぎ ゆきお

1931(昭和6)〜 2013.6(平成25)

昭和・平成期の出版人(ゴングの生みの親)、俳人

埋葬場所: 19区 1種 13側 24番

 旧姓は横山。養父は漢学者の小柳司気太(同墓)。小柳家に子供がなく横山家から幸郎を養子に迎える。幸郎から見て小柳司気太は叔父にあたる。9歳の時に小柳司気太は他界、以降、家督を継ぐ。
 ベースボールマガジン社に入り、野球を専門とし、野球担当編集長として名を馳せた。ベースボールマガジン社を退職し、池正義らと独立して日本スポーツ出版社を創業。1968.3.27(S43)日本スポーツ出版社から『ゴング』創刊(5月号から)。当時のプロレス雑誌は『プロレス&ボクシング』だけで、『ゴング』は2冊目のプロレス専門誌として誕生した。そのゴングの創刊に携わり、初代編集長となる。'69『別冊ゴング』(12月号)を発刊。ゴングの生みの親としてプロレスファンに認知される。
 ライバル誌との差別化として、当時の日本のプロレスラーにはいなかった空中殺法を得意とするルチャリブレのミル・マスカラスに着目し、マスカラスを毎月のように特集した。「マスカラスのゴングか、ゴングのマスカラスか」と言うキャッチフレーズも生れ、部数を伸ばしていった。
 若干19歳でベースボールマガジン社の『プロレス&ボクシング』の編集長を務めていた竹内宏介をゴングの編集長に迎え入れ、以後、小柳は編集局長として格闘技の最高責任者を長く務めた。ゴングの本誌、別冊体制はその後15年間にわたって続いたが、ライバル誌である『プロレス』(前名『プロレス&ボクシング』)が週刊化(週刊プロレス)されると、'84.5『ゴング』も約10ヵ月遅れで、ついに週刊化に踏み切った。『ゴング』はニュースよりもテーマを決めた特集記事を中心とした。
 晩年は小柳恍朗(おやなぎ こうろう)という名義で俳人としても活動。俳人協会会員、「阿吽」同人。2006(H18)句集『善忘』を刊行。2011小暮牛男と句文集「春ふたり」を共作した。脳溢血で倒れて埼玉県下の病院に入院、治療につとめてきたが、その甲斐もなく逝去。享年83歳。

<プロレス全書など>


墓所
碑 横山家

*墓所は左に「小柳家之墓」、右に洋型「横山家」。小柳家墓石の左手に小柳司気太の略歴が刻む墓誌碑が建つ。「小柳家之墓」の裏面は「昭和十六年七月十八日 小柳幸郎 建之」と刻む。

*養父の小柳司気太が亡くなった時、小柳幸郎は9歳であり、墓石建立時は10歳であったことを鑑みると、親族の横山家が建てたが小柳幸郎を立てたと推察する。

*同墓所内にある「横山家」の墓石は洋型で、左面に「昭和四十八年六月 横山敬孝 横山光郎 小柳幸郎 横山正健 横山敬五 横山東洋夫 建之」と刻み、兄弟たちの共同建之とわかると同時に、小柳幸郎の名前の刻み順から3男であることも確認できる。なお、横山正健は編集プロダクション「デポルテ」社長(2011.11.25歿)。横山東洋夫は音楽プロモーターで大物バンドを招いた“呼び屋”として著名。横山東洋夫は「プロモーターは、人気のあるアーティストを呼んできて公演させるというラインと金さえあれば誰でもできるけど、呼び屋というのは時にタレントを育て、夢や神話を創って興行を打つ仕事」と語っている。


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