旧姓は横山。養父は漢学者の小柳司気太(同墓)。小柳家に子供がなく横山家から幸郎を養子に迎える。幸郎から見て小柳司気太は叔父にあたる。9歳の時に小柳司気太は他界、以降、家督を継ぐ。
ベースボールマガジン社に入り、野球を専門とし、野球担当編集長として名を馳せた。ベースボールマガジン社を退職し、池正義らと独立して日本スポーツ出版社を創業。1968.3.27(S43)日本スポーツ出版社から『ゴング』創刊(5月号から)。当時のプロレス雑誌は『プロレス&ボクシング』だけで、『ゴング』は2冊目のプロレス専門誌として誕生した。そのゴングの創刊に携わり、初代編集長となる。'69『別冊ゴング』(12月号)を発刊。ゴングの生みの親としてプロレスファンに認知される。
ライバル誌との差別化として、当時の日本のプロレスラーにはいなかった空中殺法を得意とするルチャリブレのミル・マスカラスに着目し、マスカラスを毎月のように特集した。「マスカラスのゴングか、ゴングのマスカラスか」と言うキャッチフレーズも生れ、部数を伸ばしていった。
若干19歳でベースボールマガジン社の『プロレス&ボクシング』の編集長を務めていた竹内宏介をゴングの編集長に迎え入れ、以後、小柳は編集局長として格闘技の最高責任者を長く務めた。ゴングの本誌、別冊体制はその後15年間にわたって続いたが、ライバル誌である『プロレス』(前名『プロレス&ボクシング』)が週刊化(週刊プロレス)されると、'84.5『ゴング』も約10ヵ月遅れで、ついに週刊化に踏み切った。『ゴング』はニュースよりもテーマを決めた特集記事を中心とした。
晩年は小柳恍朗(おやなぎ こうろう)という名義で俳人としても活動。俳人協会会員、「阿吽」同人。2006(H18)句集『善忘』を刊行。2011小暮牛男と句文集「春ふたり」を共作した。脳溢血で倒れて埼玉県下の病院に入院、治療につとめてきたが、その甲斐もなく逝去。享年83歳。