メイン » » » 小柳司気太
おやなぎ しげた

小柳司気太

おやなぎ しげた

1870.12.24(明治3.11.3)〜 1940.7.18(昭和15)

明治・大正・昭和期の中国学者、漢学者

埋葬場所: 19区 1種 13側 24番

 越後国(新潟県)三条市上保内村出身。熊倉玄周の子として生まれる。旧姓は熊倉。父没後、3歳の時に、代々庄屋を務める母方の小柳卯三郎の養子となる。旧漢字表記は「小柳司氣太」。
 6歳から漢学に親しみ、西蒲原郡吉田町の鈴木揚軒の私塾『長善館』に学ぶ。18歳で上京。東京英語学校で学ぶが、病気により一時退学し帰郷。その後、再度上京し、1894 東京帝国大学漢学科選科を修了。卒業後は新聞雑誌記者を志し、藤田精一らと東亜学院を設立し、月刊誌『東亜説林』を刊行するなどしたが挫折。以降は教師生活に入る。
 広島尋常中学校、京都中学校、旧制山口高等学校、学習院大学、国学院大学、慶應義塾大学で主に漢学の講師を務め、'26(T15)大東文化大学教授となった。
 漢学のみならず、儒学・道教・仏教に通じ、とりわけ道教研究に先駆的業績を残したほか、宋学から近代思想に及ぶまで多角的な研究を推進し、我が国の教育界に多大な貢献を成した。また超脱・誠実な人柄であった。
 '30(S15) 宮中行事の講書始では昭和天皇に「周易」を進講した。'40(S15)大東文化大学学長に就任したが、その年に急逝。享年69歳。文学博士。
 主な著書に『宋学概論』1894、『詳解漢和大字典(服部宇之吉と共著)』1920、『道教概説』1923、『白雲観志』1934、『東洋思想の研究』1934 などがある。その深い学識を駆使した『新修漢和大字典』1932 は、後の漢字研究家に大きな影響を与えたといわれる。小柳司気太の業績をまとめた『近世の醇儒 小柳司気太』という書物もある。

<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名辞典>
<人事興信録など>
<曾孫の原様より情報提供>


墓所
碑 横山家

*墓所は左に「小柳家之墓」、右に洋型「横山家」。小柳家墓石の左手に小柳司気太の略歴が刻む墓誌碑が建つ。「小柳家之墓」の裏面は「昭和十六年七月十八日 小柳幸郎 建之」と刻む。

*小柳司気太に子供がなく、横山家から甥(幸郎からは叔父)の幸郎を養子に迎えた。小柳司気太が亡くなった時、小柳幸郎は9歳であり、墓石建立時は10歳であったことを鑑みると、親族の横山家が建てたが小柳幸郎を建立者として刻んだと推察する。なお、小柳幸郎は後にプロレス雑誌『ゴング』の生みの親である出版人として活躍する。また隣りに建つ「横山家」の墓石左面に「昭和四十八年六月 横山敬孝 横山光郎 小柳幸郎 横山正健 横山敬五 横山東洋夫 建之」と刻み、兄弟たちの共同建之とわかる。幸郎は並び順からみて3男と確認できる。また横山正健は編集プロダクション「デポルテ」社長(2011.11.25歿)。横山東洋夫はユニバーサルコミュニケーションズ代表を務め、音楽プロモーターで大物バンドを招いた“呼び屋”として著名。

※人名辞典の多くにヨミを「こやなぎ しきた」と書いている書物が多いが、正式は「おやなぎ しげた」である。当サイトでも長年誤ったヨミで掲載をしていたが、曾孫にあたる原孝様よりご指摘を頂戴し修正した。
 原様から見て母方の曽祖父にあたられるのが、小柳司気太であり、父方の祖父にあたられるのが陸軍中将の土橋勇逸(21-1-14)とのことです。原様、貴重な情報ありがとうございます。



第296回 道教研究 先駆者 中国文学者 小柳司気太 お墓ツアー


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・あ行 | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。