越後国(新潟県)三条市上保内村出身。熊倉玄周の子として生まれる。旧姓は熊倉。父没後、3歳の時に、代々庄屋を務める母方の小柳卯三郎の養子となる。旧漢字表記は「小柳司氣太」。
6歳から漢学に親しみ、西蒲原郡吉田町の鈴木揚軒の私塾『長善館』に学ぶ。18歳で上京。東京英語学校で学ぶが、病気により一時退学し帰郷。その後、再度上京し、1894 東京帝国大学漢学科選科を修了。卒業後は新聞雑誌記者を志し、藤田精一らと東亜学院を設立し、月刊誌『東亜説林』を刊行するなどしたが挫折。以降は教師生活に入る。
広島尋常中学校、京都中学校、旧制山口高等学校、学習院大学、国学院大学、慶應義塾大学で主に漢学の講師を務め、'26(T15)大東文化大学教授となった。
漢学のみならず、儒学・道教・仏教に通じ、とりわけ道教研究に先駆的業績を残したほか、宋学から近代思想に及ぶまで多角的な研究を推進し、我が国の教育界に多大な貢献を成した。また超脱・誠実な人柄であった。
'30(S15) 宮中行事の講書始では昭和天皇に「周易」を進講した。'40(S15)大東文化大学学長に就任したが、その年に急逝。享年69歳。文学博士。
主な著書に『宋学概論』1894、『詳解漢和大字典(服部宇之吉と共著)』1920、『道教概説』1923、『白雲観志』1934、『東洋思想の研究』1934 などがある。その深い学識を駆使した『新修漢和大字典』1932 は、後の漢字研究家に大きな影響を与えたといわれる。小柳司気太の業績をまとめた『近世の醇儒 小柳司気太』という書物もある。
<コンサイス日本人名事典> <講談社日本人名辞典> <人事興信録など> <曾孫の原様より情報提供>
第296回 道教研究 先駆者 中国文学者 小柳司気太 お墓ツアー
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