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たさか さだお

田坂貞雄

たさか さだお

1879.2.2(明治12)〜 1957.12.18(昭和32)

明治・大正・昭和期の弁護士

埋葬場所: 26区 1種 16側

 愛媛県出身。田坂善右衛門の三男。松山中学校を経て、早稲田大学政治科に入り転じて、1904(M37)日本大学卒業。翌年、弁護士試験に合格し法律事務を行いながら、日刊東京中外商業新報の法律顧問になる。東京京橋に単独事務所を興すが、時勢に鑑み組合事務所として弁護活動を行った。
 '19(T8)自由法曹団結成し、メンバーに入る。関東大震災の混乱時期に起こった亀戸事件では事件の調査と証拠収集を依頼された自由法曹団のメンバーとして活躍。このメンバーには、三輪寿壮(23-1-1)や片山哲らがいた。
 '29(S4)から日本弁護士協会が編集の「法曹公論」で論文を連載。そこには弁護士の生活苦と非行が社会問題になっていることを論じ、その原因を5つ(1.人員の過剰、2.事件数の減少、3.弁護士収入の減少、4.非弁護士の侵入、5.弁護士の質の低下)挙げ指摘。弁護士階層や職務範囲などの問題定義をした。
 '29弁護士の布施辰治が、日本共産党一斉検挙の三・一五事件の大阪地方裁判所における弁護活動において法廷の秩序を乱し、弁護士の体面を汚したという理由で東京控訴院の懲戒裁判所に起訴された。'32大審院の懲戒裁判所で第13回公判中、弁護人の弁論前の抜き打ち判決で 弁護士除名の判決確定し、東京弁護士会を除名された事件「布施辰治懲戒事件」が起こった。この事件に関して、田坂ら弁護士有志が上申人となり、大審院の懲戒裁判は重大な疑義があるため緊急の処置を求むというような上申書を司法大臣宛に提出した。結果、翌年、皇太子誕生による恩赦により布施辰治は弁護士免許復活となっている。
 社会問題に取り組む弁護士として活動した。享年78歳。

<人事興信録など>


*墓石前面は「田坂家」。裏面が墓誌となっており、俗名と生没年月日が刻む。妻の梅尾(1883.9.14-1978.6.14)は三井物産の川上秀推の妹。次男で嫡男の田坂乾(同墓)は画家。三男の田坂駿(同墓 1908.9.28-1972.11.8)も弁護士として活躍した。なお、長男の辰己(1904生後歿)、4男の麟平(1912-1926)は早死。田坂乾の妻の田坂ゆたか(同墓 1920.12.24-2018.10.5)は洋画家の石井柏亭の4女で水彩画家。

*布施辰治は日本人として初めて大韓民国建国勲章を受章した人物で、墓は東京都豊島区の常在寺。


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