愛知県海西郡弥富町(弥富市)出身。酒造業を営んでいた田中嘉七の二男として生まれる。幼少より学事に優れ、義校での成績は群を抜いていた。
1890(M23)上京して慶應義塾で学び、1895.7 慶應義塾大学理財科卒業。卒業後、横浜の生糸貿易商の若尾幾造商店に入り経験を積む。店側に従い前垂れ掛けの小僧姿で早朝から深夜まで働き、主人から当家の婿にと声がかかるほどであった。
1907 試験を受けて三井銀行に入行。二年間、秘書 兼 調査の任に当たり、その後、大阪支店に転じた。貸付係長などを経て、大阪支店次長となる。この頃、慶應の先輩で大阪で活躍していた福松商会にいた松永安左エ門や阪急電鉄の小林一三と交流した。
'10 東京本部への転勤を機に三井銀行を辞し、松永安左エ門や福澤桃介(9-1-7-1)に誘われ、九州電気取締役支配人となった。三井銀行時代に松永と福澤が九州の福博電気軌道の創立の際に関わったご縁からであった。この時、34歳である。
北九州地方の電気界では、博多電灯と福博電車と九州電気との三社合併問題が浮上していた。水力地点を有し需要を求めていた九州電気と、火力発電で運営し需要が拡大していた博多電灯、福博電車とは互いに補い合う面があった。しかし、佐賀、福岡という地方感情から合併は難航したため、'11 博多電灯と福博電車がまず合併し、翌年、'12.6 九州電気と合併して九州電灯鉄道が設立された。本社は福岡に置き、社長は佐賀の財界人の伊丹弥太郎が就任しバランスをとった。松永安左エ門、博多電灯社長だった山口常太郎と共に、田中は常務取締役に就任した。
以降10年間、松永安左エ門の片腕として、事業の合併統合に手腕を発揮した。特に経理の手腕には定評があった。糸島電灯、七山水力電気、佐世保電気、久留米電灯、長崎電気瓦斯などを合併。津屋崎電灯、宗像電灯を買収。九州北西部を中心に電気事業を統合し、供給区域は福岡県西部から、佐賀県、長崎県、山口県一部にまで拡大し、九州電力界の有力会社となった。田中の奮闘を「松永氏の功績と相俟って伯仲の感あり」と語り継がれている。'22,6 九州電灯鉄道は関西電気と合併し東邦電力と改称。東邦電灯初代専務取締役に就任した。
その他、日本電気装飾、九州鉄道、諏訪炭鉱、九州産業鉄道、技光鉄工所、唐津築港、九州化学工業など各種企業の取締役、監査役となり、福岡経済界で重きをなした。
'23.8~'24.5 欧州各国で電気事業を視察。帰国後は、早川電力常務、次いで同社が群馬電力と合併し東京電力が創設されると監査役となった。並行して東邦電力では専務を務め、'30.1(S5)から監査役を務めた。その後、合同電気副社長、揖斐川電気代表取締役、白山水力、天竜川電力の各取締役、三河水力電気の監査役など、東邦電力系の関連事業のほか、パン販売業の銀座宝来の取締役なども務めた。
'32 この頃より体調を崩し、療養につとめたが、翌年、東大病院にて誕生日に逝去。享年57歳。
*墓所には二基建つ。正面和型「田中家之墓」、裏面「平成七年九月 田中精一 建之」。墓所左手側に和型「故 陸軍中尉 田中徳三 墓」、右面「謚號 雄德院中峯宗義居士」、左面「昭和十八年四月二日於ビルマ國アキャブ戦死ス 行年二十七歳」。墓所左側に墓誌も建つ。墓誌は田中德次郎から刻みが始まる。戒名は德廣院関山是仁居士。德次郎の妻は たか(M24.11-H2.9.17・99才)の戒名は慈観院清室妙隆大姉。たかは愛知県出身、名古屋証券取引所理事長の高橋彦次郎の長女。子息4男全員が同墓所に眠る。長男は中部電力社長を務めた田中精一。戒名は大燈院燿道研精居士。精一の妻は英子(H28.4.4・100才:松濤院壽鶴法英大姉)。二男は田中安喜二(T1.10-H9.10.17)。安喜二の妻は明子(H7.4.21歿・74才:エリザベート)。三男は田中徳三(T6.5-S18.4.2:墓誌には刻まず墓石が建つ)。四男は田中常司(T10.7-H12.4.26)。常司の妻は澄子(H16.11.10歿・77才)。
*姉の たま の息子(甥にあたる)は洋画家の佐分眞(12-1-5)。