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たかしま ほっかい

髙嶋北海

たかしま ほっかい

1850.10.31(嘉永3.9.26)〜 1931.1.10(昭和6)

明治・大正期の日本画家、地質学者

埋葬場所: 5区 1種 13側 4番

 長門国萩(山口県萩市)江向村出身。萩藩の藩医の髙嶋良台の次男として生まれる。幼名は和三郎。本名は得三(とくぞう)。兄は書画家の髙嶋九峰(20-1-17)。娘(三女)に映画女優の髙嶋愛子(同墓)がいる。
 幼少の頃より絵を描くことが好きであり、大庭学僊に本格的に学ぶ。1872(M5)明治政府の工部省に入省し、兵庫県の生野銀山に赴任。フランス人技師コワニェから地質学とフランス語を学ぶ。1874 絵が得意であったこともあり『山口県地質図説』『山口県地質分色図』を著す。これは日本人初の独自作画の地質図であり、日本初の地質屋・髙嶋得三としても名が残ることになる。
 内務省地理局、農商務省山林局を経て、1884 万国森林博覧会参加要員として渡英。ヨーロッパ各地の森林視察の後、南フランスのナンシー山林学校に留学。植物地誌学を学び、髙嶋が描いた植物の緻密図や写生画があまりの上手さに評価が高く、現在、現地の美術館に飾られている。また、1886 フランス東部の美術展に日本画を出品し絶賛され、ナンシーで日本画法を紹介し、エミール・ガレらに影響を与え、アール・ヌーヴォー運動を刺激した。フランスでは髙嶋北海の名は知られた人物である。
 1888 帰国し、農商務省技師を務めながら、公務の合間に山岳写生をし、山水画の研究も独自で進めながら、日本美術協会展に作品を出品した。1895『連峯紅葉』の作品が銀杯を受賞したことを機に、47歳で公職を辞して、郷里に戻り画家に転じたが、1902、52歳で再び上京を決意。この時、雅号を「北海」とし、中央画壇での活動を本格的に始める。またロッキー山脈の写生やセントルイス万国博覧会のために渡米し、さらに中国へ写生旅行にも行った。
 1906 第40回日本美術協会展で『秋●(石間)暁霽』で二等賞銀杯、1907 東京勧業博覧会で『水墨山水』で一等賞牌を受賞した。1908 からは文展審査員を務めている。
 関東大震災を機に、郷里の山口に戻り、図画教師の傍ら画業を続けていたが、1930(S5)東京にいる子どもたちの元に身を寄せ、翌年逝去。享年80歳。日本画家と地質学の二刀流で活躍した稀有な人物であった。

<朝日日本歴史人物事典>
<二十世紀物故日本画家事典>
<山口県の先人たち>


墓所

*墓所には二基並ぶ。右側が和型「髙嶋氏之墓」、左側が自然石「髙嶋北海墓」。「髙嶋北海墓」の前面に「犀東國府種徳 謹書」と刻む。犀東國府種徳は漢詩人の国府犀東(こくぶ さいとう)であり、本名が種徳。

*二基とも裏面等含め何も刻みはなく墓誌もない。髙嶋北海が晩年に子息がいる東京に移住先を変えていることや、多磨霊園に墓石が建って以降代々墓としていること。離縁し戻り独身で亡くなっていることから、娘で三女の映画女優の髙嶋愛子も同墓に眠っている。

*兄の髙嶋九峰(20-1-17)の墓石は「髙島家」であり、墓誌には本名の髙嶋張輔が刻む。



第160回 日本画家と地質学 二刀流 髙嶋北海 お墓ツアー


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