明(みん)国(現在の中国)浙江省杭州府仁和県出身。俗名は戴笠(たいりゅう)。諱をはじめ観胤、ついで観辰のちに笠とした。字を子辰のちに曼公。臨済宗の黄檗(おうばく)派の禅僧であり日本で得度した後は独立性易と僧名を名乗った。独立性易禅師として広く知られる。荷●人(●は「金且」を合わせた一文字)、天外一閒人(てんがいいっかんじん)、天閒老人、就庵などを号とした。文人・書家などからは戴曼公と称されることも多い。
父は戴敬橋、母は陳氏。1620 父が没した翌年、大火で家産を焼失したため、医をもって生業にする決意をし、儒学と医術を学び、明朝に仕官した。名流が集う詩社にも参加し、詩や書も創作。宦官の魏忠賢による政治の乱れを嫌い、崇徳県語渓に隠れ医術を業とした。
明朝滅亡後、清朝の圧政を逃れ、1653(承応2) 長崎に来航し、そのまま亡命。この時、58歳。翌年、来日した隠元隆琦(いんげん りゅうき)の弟子となり、興福寺にて得度し、儒者であったが仏門に帰依。道号を「独立」、法諱を「性易」と名乗った。以降、師の布教をたすける。
1858(万治1) 隠元が4代目将軍の徳川家綱に謁見するとき、江戸へ書記として随行した。その時、家綱の前で明の文化について話す機会を得、明国での儒学や中国伝統の書法、篆刻などを紹介した。鎖国の日本において、これが新たな大陸文化の伝来となり、唐様(からよう)の書の流行をもたらすきっかけとなった。
文人気質に富み、日本文人画の先駆けとなる水墨画を描き、同じく帰化僧の化林性偀(けりん しょうえい)とともに長崎桑門の巨擘と称賛された。ハンコの世界から芸術の世界となった篆刻の技法も伝えた。篆刻(てんこく)は石材に印を刻む行為で、中国の明代に多くの篆刻家を輩出し、篆刻は詩、書、画と並び文人の芸のひとつとされた。またこの時期、知恵伊豆で知られる老中の松平信綱の目に留まり、招かれて現在の埼玉県新座市にある平林寺に滞在。後(没後の1716)に弟子の深見玄岱(同墓)の発願で建てられた戴渓堂(たいけいどう)があり、独立性易の像や碑が祀られることになる。
平林寺滞在の翌年、持病が悪化し長崎に戻る。一説によると、独立性易は仏教の修業もないまま禅僧となり、満足にお経も読めないことが兄弟子たちの批判につながり、肩身が狭い思いをしたことが長崎に戻った理由ではないかとされている。
長崎に戻った後、興福寺支院の幻寄山で脚の治療をしながら、門を閉ざして3年間の修業に入る。この間、水戸学で知られる朱舜水(しゅしゅんすい)と出会う。またこの頃、深見玄岱を弟子とし、儒学や書法、篆刻を教える。自著『斯文大本』を元に『書論』を著し正しい書法の啓蒙に努めた。長崎で手ほどきを受けた弟子たちが、明の篆刻の技術を学び、その後の日本の篆刻の発展につながっていく。このことから「日本篆刻の祖」と称される。
1662(寛文2) 各地を行脚しながら医業に専念。そんな折、長崎街区の大火事に興福寺も類焼の被害に遭う。朱舜水や柳川の儒学者の安東省庵の世話を受けながら医業を続けて暮らす。貧富にかかわらず民に薬を施し病を癒したという。とりわけ疱瘡の治療で知られた。周防(すおう:山口県)岩国城主吉川(きっかわ)家の家臣の池田正直から声をかけられ、治痘法をおしえるなど、医者としての名声を高めた。
崇福寺広善庵で示寂する。享年76歳。荼毘に付され遺骨は従者の慧明・祖明によって宇治黄檗山萬松岡(ばんしょうこう)に奉じられた。