長崎出身。深見玄岱(同墓)の子。諱は但賢。のち有隣に改める。通称:松之助、久太夫、新兵衛。字を雙玉、隠居後は右翁と号す。
深見家は中国の明の福建省影郡がルーツであり、祖父の深見但有(高大誦)は長崎で唐通事(通訳官)を務め、深見 姓を名乗った。父の玄岱は書家・篆刻家として名を馳せた人物。兄に書家の玄融(頤齋)がいる。玄融は幕府に儒臣として仕えていたが、1718(享保3.2.16) 狂気を理由に父の玄岱のもとに籠居させられ、父も連座して出仕差仕止の処分を受けた。のちに赦されるが、その件もあり、同.10.19 父の致仕を受けて有隣は家督を継ぎ、儒者となった。
1721(享保6)から父と5年間かけて中国清代の総合法典『大清会典』を解読し翻訳(父の玄岱は1772没)『大清会典和解』を編纂した。『大清会典』は清王朝の制度や典礼を集めた書籍(会典)であり、清代を通じて5回編纂されている。この『大清会典』は徳川吉宗に納本された。
1732(享保17)享保の大飢饉を受け、備荒作物としてサツマイモ(甘藷、甘蔗)の栽培を徳川吉宗に建言した。これは後に、1744(延享1)甘藷に関する研究は『甘蔗考』として農業技術に関する編述もまとめた。
1734(享保19.8.8)書物奉行に抜擢される。徳川吉宗の側近学者の一人となり、寄合儒者から書物奉行に転じてからは、在職三十余年の間、翻訳・考証に業績を残した。徳川吉宗の時代に間断なく広汎に行われた『類聚国史』、『明月記』などの校訂、『二条家日次記』書写に当たる。また天文の知識にも秀でていたことから、幕府天文方の観測所詰を命じられた。
父譲りで書に対して才能を発揮する。門下に澤田東江など優秀な人物を輩出する。1765(明和2.4.11)西城御裏門番の頭に移る。同.12.18 布衣(ほい)を着ることを許される。1768(明和5.5.9) 辞職して寄合となる。翌年末より隠居。享年81歳。戒名は尚議院殿仁岳道薫居士。
前妻は本多伯耆守家臣(田中藩士)の朝倉与市景長の娘。後妻は大奥老女河井の養女。子は1男1女。男子の深見貞雄(槌太郎、帯刀、長左衛門。母は「某氏」)は大番として幕府に出仕したが、1764(明和1)大坂在番中に父に先立って37歳で逝去。貞雄には1男2女があり、深見有忠(尚之助、久太夫:同墓)が家を継いだ。