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すずき ただし

鈴木 正

すずき ただし

1910.10(明治43)〜 1986.3.3(昭和61)

昭和期の実業家(三木証券・新日本鍛工)

埋葬場所: 9区 1種 1側 16番

 秋田県山本郡金岡村(旧 山本町、現 三種町)出身。三浦蔵治の三男として生まれる。旧姓は三浦。
 大館中学、山形高校を経て、1935(S10)東京帝国大学経済学部卒業。戦前は一時、東京鍛工にも身をおくが、鈴木三樹之助(同墓)の長女の真佐榮(同墓)と結婚し婿養子となり、義父が経営する三木証券に入り経営の見習いとなる。
 '50 東日本鍛工社長を経て、'53 新日本鍛工(シンニッタン)社長に就任。'55 義父の後を継ぎ、三木証券の2代目社長に就任。三木証券社長を11年間、新日本鍛工社長を23年間務め、証券と鍛造業の二刀流と称される。更に、全日本鍛造工業会会長としても活躍。'66 三木証券社長を退任し会長。後任の社長は金野昌夫。'76 新日本鍛工社長を退任し会長。
 この間、'62 ロンドンで開かれた第四回国際鍛造会議に日本団長として出席。また、'65 第五回大会(西ドイツ、ミュンヘン)にも団長として出席した。'65.5 竹村吉右衛門賃の後任として在京鳳鳴会会長に就任し、郷土人(秋田人)の育成にも尽力。
 '82 新日本鍛工取締役相談役、'84 新日本鍛工顧問。二年後逝去。享年75歳。

<あきた(通巻40号)中山善三郎連載対談 鈴木正氏>
<人事興信録>


墓所 すずき みきのすけ

*墓所には二基並んで建つ。左が墓石前面「鈴木三樹之助之墓」。右が墓石前面「鈴木家奥津城」、裏面「昭和三十六年十二月 鈴木正 建之」。右側に墓誌が建つ。22才で戦病死した三樹之介の二男の鈴木保(T12-S19.2.22)、26才で満州国ハイラル戦死した三樹之介の長男の鈴木勤一(T9-S20.8.14)が刻み、次に鈴木三樹之介が刻む。戒名は宝樹院大譽受楽得法居士。三樹之介の妻は あい(S43.11.5・74才:穂峰院迎譽紫雲妙愛大姉・旧姓は中原)。長女の真佐榮(H17.9.10・91才:澄江院榮譽芳林眞温大姉)は正と結婚し、婿養子になった鈴木正(S61.3.3・75才)は三木証券を継ぎ社長を務めた。正の戒名は澄心院量譽實誠正道居士。次女の志げ子は後に総理大臣となる大平正芳に嫁いだ。鈴木家と大平家の墓所は隣同士である。正と真佐榮の長男の鈴木貫(H22.8.11・77才:誠光院通譽貫融居士)も三木証券を継ぎ社長を務めた。貫の妻は圭子(秋田県出身・小田島由男の長女)。

*鈴木三樹之介の孫で、正の長男の鈴木貫(1938-2010.8.11:同墓)は、1961 慶應義塾大学経済学部卒業後、山一証券に入社。'68 三木証券に転職。'79 専務を経て、金野昌夫の後を継ぎ、'82 社長に就任。16年間社長を務め、'98 会長。
 正の二男の鈴木玄雄(1941生)は、'63 慶應義塾大学経済学部卒業。'64 叔父である大平正芳の秘書を務めた。'80 衆参同日選挙の期間中に大平が急死。その後は大平の娘婿である森田一衆議院議員の秘書を務めた。'87 三木証券に入社し常務、'97 専務を経て、'98 社長を務めるも、2015 大腸がんのため在任中に逝去(墓誌に刻みはない)。後任の社長は鈴木崇が就任した。
 正の長女の元子は久保田昭一郎に嫁ぐ。二女の記子は小林次郎に嫁ぐ。


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