岩手県出身。海野貞吉の三男として生まれる。旧姓は海野。先代あいの入夫となる。
1911.10(M44)東京において米穀商を創業。'16(T5)東京米穀商品取引所仲買人となる。'36.4(S11)東京株式取引所短期取引員となり、三木商店を創立。同時に実物取引員も兼ねる。
'38.7東京株式取引所一般取引員となる。'42.12三木証券株式会社に改組(資本金100万円)、初代社長に就任した。'44戦時中であったが好調で初めての増資(資本金150万円)をする。
'48戦後間もない状況であったが事業拡大の第一歩として八王子営業所開設。'49東京証券取引所の改組に伴い、その正会員となる。'50横須賀営業所開設、'51平塚営業所開設、'53三崎営業所開設と事業を拡大していった。'55社長を義息子の鈴木正に譲り、会長となった。
社会事業として故郷東北圏の大学大学院において環太平洋連帯構想を発展させるに相応しい研究を専攻する者で経済的理由により修学が困難な学生に対しての奨学資金の支給を行う“財団法人三木育英会”を発足させた。
現在は同財団は解散しているが、環太平洋学術研究奨励事業のひとつ、“鈴木三樹之助記念 岩手大学大学院奨学金支給事業”として引き継がれている。なお、この事業は大平正芳記念賞も併設している。
山口李雄の著作『商いつづけて五十年 : 鈴木三樹之助と三木証券』(1986)がある。享年74歳。
*墓石前面「鈴木三樹之助之墓」。妻は あい。長女の真佐栄は鈴木正と結婚、正は三木証券を引き継ぐ。次女の志げ子は後に総理大臣となる大平正芳に嫁いだ。鈴木家と大平家の墓所は隣同士である。
*墓所には二基並んで建つ。左が墓石前面「鈴木三樹之助之墓」。右が墓石前面「鈴木家奥津城」、裏面「昭和三十六年十二月 鈴木正 建之」。右側に墓誌が建つ。22才で戦病死した三樹之介の二男の鈴木保(T12-S19.2.22)、26才で満州国ハイラル戦死した三樹之介の長男の鈴木勤一(T9-S20.8.14)が刻み、次に鈴木三樹之介が刻む。戒名は宝樹院大譽受楽得法居士。三樹之介の妻は あい(S43.11.5・74才:穂峰院迎譽紫雲妙愛大姉・旧姓は中原)。長女の真佐榮(H17.9.10・91才:澄江院榮譽芳林眞温大姉)は正と結婚し、婿養子になった鈴木正(S61.3.3・75才)は三木証券を継ぎ社長を務めた。正の戒名は澄心院量譽實誠正道居士。次女の志げ子は後に総理大臣となる大平正芳に嫁いだ。鈴木家と大平家の墓所は隣同士である。正と真佐榮の長男の鈴木貫(H22.8.11・77才:誠光院通譽貫融居士)も三木証券を継ぎ社長を務めた。