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すずき てつこ

鈴木哲子

すずき てつこ

1906(明治39)〜 2000.1.15(平成12)

昭和期の翻訳家、教育家

埋葬場所: 10区 1種 1側(勝田家)

 明治維新史家の勝田孫弥(同墓)の次女として生まれる。米国のセントローレンス大学卒業。帰国後、精華高等女学校(東海大学東海精華女子高等学校から、S61東海大学付属望洋高等学校)で教鞭をとる。 英語教師の傍ら、海外の児童文学の普及に努めた。訳書に「シャーロットのおくりもの」「こぶたとくも」「大草原の小さな町」などがある。 1973(S48)から校長を勤めた。'85(S60)精華女子高等学校の名誉校長となり、翌年から望洋高校の名誉校長となった。
 15日午前0時5分、肺炎のため死去。享年93歳。告別式は17日セレモアつくば玉川上水会館で行われた。喪主は甥の勝田二郎。

<洋様より情報提供>


*墓石は洋型「勝田家」。裏面に「昭和六十年六月 二女 鈴木哲子 建之 日高智子 書」と刻む。


【精華女学校】
 精華女学校の前身は女子独立学校といい、1889(M22)東京府豊多摩郡淀橋村角筈に設立された。女子独立学校の設立者は加藤とし子というキリスト教徒の教育者で、2代目の校長は内村鑑三(8-1-16-29)。 内村校長の時期は1年ほど。その後、経営が困難になり、勝田孫弥が後を引き受ける形で、精華女学校を設立した。勝田氏の奥方(“勝田けい”)が女子独立学校の卒業生であったことが縁だという。
 精華女学校が東海大学の付属になった経緯・・・東海大学の創立者は松前重義。若い頃に晩年の内村鑑三の聖書研究会に参加し師事した。恩師である内村がかつて校長を勤めた学校の経営危機にあたり、何とか救おうとして東海大学の傘下に入れた。この頃には、学校はすでに現在地に移転していた。

<洋様より情報提供>



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