メイン » » » 勝田孫弥
かつだ まごや

勝田孫弥

かつだ まごや

1867.8.25(慶応3)〜 1941.8.21(昭和16)

明治・大正・昭和期の明治維新史家

埋葬場所: 10区 1種 1側

 号泰東。薩摩国喜入郷肝付家臣勝田新左衛門の長男。鹿児島師範学校卒業、上京して明治法律学校に入学して法律を学ぶ。 立憲政治に関心を持って1890(M23)『帝国議会要論』を著わし、女子参政を主張した。 のち維新史の研究に転じて1894(M27)・1895『西郷隆盛伝』五冊を刊行、さらに1910(M43)・1911『大久保利通伝』三巻をだして維新史家として地位を確立した。 この二書の執筆には当時在世中の故老の実話を徴したほか、大久保伝では大久保の日記その他をはじめて紹介し、鹿児島藩中心の維新史の型をつくった。 1911(M44)維新史料編纂会が設立されると編纂官となり、1931(S6)退官し、同会委員となる。 なお、私塾東光学園を営み、また1901(M34)以降、精華女学校(現在の東海大学東海精華女子高等学校)を経営した。そのほか一時、雑誌『海国少年』を刊行した。

<日本近現代人名辞典>
<MATSU様より情報提供>


*墓石は洋型「勝田家」。裏面に「昭和六十年六月 二女 鈴木哲子 建之 日高智子 書」と刻む。


【精華女学校】
 精華女学校の前身は女子独立学校といい、1889(M22)東京府豊多摩郡淀橋村角筈に設立された。 女子独立学校の設立者は加藤とし子というキリスト教徒の教育者で、2代目の校長は内村鑑三(8-1-16-29)。 内村校長の時期は1年ほど。その後、経営が困難になり、勝田孫弥が後を引き受ける形で、精華女学校を設立した。 勝田氏の奥方(“勝田けい”)が女子独立学校の卒業生であったことが縁だという。
 精華女学校が東海大学の付属になった経緯・・・東海大学の創立者は松前重義。若い頃に晩年の内村鑑三の聖書研究会に参加し師事した。 恩師である内村がかつて校長を勤めた学校の経営危機にあたり、何とか救おうとして東海大学の傘下に入れた。この頃には、学校はすでに現在地に移転していた。

<洋様より情報提供>


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・か行 | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。