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すぎうら まさお

杉浦正雄

すぎうら まさお

1881.9.30(明治14)〜 ?

明治・大正・昭和期の海軍軍人(少将)

埋葬場所: 21区 1種 11側

 愛知県出身。1902.12.14(M35)海軍兵学校卒業(30期)、同期に今村信次郎(後の中将:1-1-3:墓じまい)、岡本郁男(後の少将:23-1-1)がいる。少尉候補生となり橋立乗組。'03浪速乗組、少尉になる。'04日露戦争の日本海海戦では第5駆逐艦不知火の乗組みとして活躍。'05中尉となり、'06沖島乗組、'07明石分隊長心得、浅間分隊長心得を経て大尉になり、浅間分隊長に着任。
 '08第10艇隊艇長、'08水雷校特修科学生になり、'09第9艇隊艇長、'10霞駆逐艦長を任ぜられた。'12水雷校特修科学生になり、漣駆逐艦長、'13(T2)神風駆逐艦長、少佐になり横須賀鎮守府文庫主管に就いた。'15横須賀海軍工廠艤装員・樺駆逐艦長を兼ね、'16山風駆逐艦長、佐世保鎮守府附を経て、水雷校特修科学生。'18中佐に昇格し、 第3駆逐隊司令、水雷校教官、'19第6駆逐隊司令、第24駆逐隊司令、'20第27駆逐隊司令を兼ね、'21第26駆逐隊司令を歴任し、'22.12.1大佐に進み、佐世保鎮守府附となった。
 '23.3.1夕張艤装員長、同.5.15巡洋艦 夕張艦長に就任した。この時、同.9.1関東大震災が発生。同.9.6戒厳司令部の置かれていた横須賀鎮守府では、横浜沖に第3戦隊が到着したので、横浜の一切を連合艦隊旗下の第3戦隊司令長官であった小林躋造(10-1-3)に任せられ、杉浦の夕張と、駆逐艦の葵は別の任務を通達された。杉浦には横浜市の警察署の救援、朝鮮人や中国人の保護活動を任ぜられ、加えて根岸村で被災した刑務所に陸戦隊を派遣して、受刑者を横浜港まで護送、夕張と葵に乗艦させて、名古屋刑務所に移送する任務を遂行した。復興支援などを経て、同.12.1旅順防備隊司令。
 '25.4.1軍令部出仕、同.7.15朝日特務艦長、'26.11.1扶桑艦長を務めた。'27.8.20(S2)横須賀鎮守府附、同.12.1少将に累進し、同.12.15待命、同.12.25予備となる。'39.9.30後備となるも、'41.4.1予備、'44.4.1退役となった。従4位 勲3等 功5級。

<帝国海軍提督総覧>
<日本海軍将官総覧など>


*墓石正面に「杉浦家之墓」。裏面に「昭和十三年五月一日 海軍少将従四位勲三等功五級杉浦正雄 建之」と刻む。墓誌はない。


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