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その ひろとら

薗 廣虎

その ひろとら

1865(慶応1)〜 1942.1.1(昭和17)

明治・大正・昭和期の雅楽家

埋葬場所: 14区 1種 10側

≪詳しい略歴は調査中・ご存知の方がいらっしゃいましたらご教示ください≫

 代々雅楽の家系。旧楽人の新家として独立。幼少から宮内省に入り、宮内省式部職雅楽部の楽手 兼 雅楽手を務めた。主に笛を担当。同時期に活躍した雅楽家に、多忠保(22-2-3)、東儀家の面々らがいた。享年77歳。


*墓石は和型「薗家之墓」。右側に墓誌が建つ。戒名廣徳院清譽南壽居士。

*長男の薗廣進(その ひろゆき 1906-1977.3.26 同墓:廣楽院温譽進道居士)も雅楽の道を歩み、歌・和琴と打物(太鼓)で活動。宮内庁楽部楽長を務めた。 妻は こと(同墓)。


【雅楽】
 明治に入り、雅楽局、式部寮、式部職、宮内省式部職雅楽部と名前を転々とし、1897.12.20(M30)雅楽部長、雅楽副長の下に雅楽師長、楽師長をおく。 この間、楽道保存賜金と雅学生制度が生まれ、旧楽家を中心に無形文化財の保護・継承政策が生まれていたが、明治30年前後の時期には、楽師の待遇改善が上申され、特に若手の伶人兼楽手からの辞職者が相次いだ。 この中に、1896.9.21付で辻高衡(5-1-7-1)が、「家族が多く、今の月俸では到底生活ができないので、かねて修得のドイツ語で相当の給料を得ることにしたい」として楽部を辞職し、東京外国語学校のドイツ語教師に転じている。 1907.10.31(M40)宮内省式部職楽部と改称し、部長・楽長が2名、楽師が40名、楽手が15名、楽生が30名とした。'09.6.1楽手を廃し、楽師を55名と変更した。

<「近代雅楽制度の研究」塚原康子>


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