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しらき とくいち

素木得一

しらき とくいち

1882.3.9(明治15)〜 1970.12.22(昭和45)

明治・大正・昭和期の昆虫学者

埋葬場所: 10区 1種 15側 1番

 北海道出身。私立函館幼稚園長、函館師範学校長などを務めた教育者の素木岫雲(しらき しゅううん)、由幾(ゆき)(共に同墓)の長男。 妹に作家の素木しづ(1895.3.26-1918.1.29 結核性関節炎のため右足を切断。画家の上野山清貢に嫁ぐ)がいる。札幌農学校卒業。 応用昆虫学を専門とし、1908(M41)台湾総督府農事試験場技師として台湾に渡り、後に昆虫部長、動物科長、殖産局植物検査所長に就任。 '17(T6)農学博士。'26台湾総督府高等農林学校教授、中央研究所技師。'28(S3)台北帝国大学設立にあたり、理農学部教授となった。 '43農学部部長。植民地統治下の台湾の農作物害虫を調査、研究を行ない、多大な功績を挙げた。
 '09(M42)台湾恒春でシロアリ研究を行ない、コウシュンシロアリ(恒春新白蟻)を発見。 同じ頃、台湾ではイセリアカイガラムシによる街路樹への被害が甚大だったため、ワタフキカイガラムシの天敵であるベダリアテントウの放飼による「天敵による害虫防除」で成果を挙げていた“ケーベレ法”に見習い、ベダリアテントウを手に入れるために渡米し、台湾に輸入した。 翌年、農商務省の許可のもと、台湾で増えたベダリアテントウをイセリアカイガラムシが大発生した静岡に導入。 静岡県立農業試験場が更に増殖させ、'12これを各県に配布し、いずれもすばらしい成果が得られた。以後、ベダリアテントウは日本各地で放飼されるようになった。 この事業は日本初の天敵移入事業である。その他、'27(S2)飛行機の発達を利用して森林の害虫駆除に利用。 '34台湾のフトオアゲハが新しい種類であることの論文を発表し、世界に珍しい発見であると重視さる。戦後日本に戻る。 日本応用昆虫学会会員。著作に『昆虫の分類』『昆虫学辞典』などある。享年88歳。長男の素木洋一(同墓)は窯業工学者でセラミックスの権威者である。

<講談社日本人名大辞典など>


墓所 素木岫雲先生之墓

*墓所正面に洋型「素木家」、裏面に「素木洋一建之」と刻む。墓所右側に「素木岫雲先生之墓」が建ち、裏面に素木岫雲の略歴等が刻む。墓誌は無い。

*素木岫雲(1899歿)は函館師範学校長、函館教育協会会長を務めた人物で、妻の由幾との間に、2男4女を儲けた。長男は昆虫学者の素木得一、二男は卓二、長女は幾くの、二女は ももえ、三女は しづ、四女は つゆ。素木家の代々の菩提寺は、岫雲の出身地の大分県中津市にある浄土真宗の西楽寺。


*素木しづ(1895.3.26‐1918.1.29)は父の赴任先の北海道函館で生まれ、札幌高等女学校卒業。1912(M45)17歳の時に結核性関節炎療養のため上京するも悪化し、赤十字病院で右足を切断。亡父から紫式部のようになれと言われ育ったこともあり、傷心のなかで「紫式部のような人になりたい」と他人の保護に頼らず、隻脚の女一人自立して生きていくために小説家になることを決意。'13(T2)母と藤村操(日光華厳の滝で投身自殺)の母が知り合いであったことで森田草平を紹介され、小学生から同窓であった森田たまに数日遅れで森田草平(12-2-31)の門下となった。同年処女作『松葉杖をつく女』、翌年『三十三の死』を発表し好評を得た。画家の上野山清貢と知り合い、'15結婚(婚姻届けの届け出は子ども誕生後の1917)。'16末に長女の桜子誕生。貧苦と病苦の中で『青白き夢』『白霧のなかに』『美しき牢獄』『赤ちゃんや』を立て続けに発表し、『たそがれの家の人々』は広津和郎に絶賛され、樋口一葉の再来かと評された。しかし、'18 結核で22歳10か月の若さで没した。永別式を赤坂霊南坂教会で行われた。遺骨は父の菩提寺の西楽寺(大分県中津市)に葬られた説があるが不明。上野山清貢が眠る墓所も調査中。

<札幌人名事典>



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