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しおざわ まもる

塩沢 護

しおざわ まもる

1921.7.30(大正10)〜 2009.2.20(平成21)

昭和・平成期の実業家(養命酒製造)

埋葬場所: 22区 1種 29の2側

 長野県出身。父は養命酒製造4代目・6代目社長の塩沢友茂・リウ(共に同墓)の長男として生まれる。 妹の千代子(次女)は箕作祥一(14-1-2-2)に嫁いだ。
 1943(S18)明治大学商学部卒業。父が社長を務める塩沢家代々の養命酒製造株式会社に入社。 後に第8代養命酒製造(株)代表取締役社長となる。2001(H13)弟の塩沢崇浩に社長の座を譲り、代表取締役会長に就任。2004相談役。 明治大学OB の経済人の集いとして設立された連合駿台会の5代目会長なども歴任した。心不全のため逝去。享年87歳。 葬儀は近親者で行い、喪主は妻の元子。2009.4.8お別れの会をホテルニューオータニで開いた。

<訃報記事など>


墓所 墓誌

*墓所には正面に墓誌を挟んで和型が二基建つ。左側が「塩澤家之墓」、右側が「塩澤友茂 / 室 リウ 之墓」。 墓所右側にエレキギターが描かれた墓誌があり、裏面に平成15.4.7に19歳の若さで没した塩澤友朗の没年月日・戒名・俗名・享年が刻む。 墓誌には、塩澤民蔵重民、妻の浪、魚三郎、妻のキン、恭次郎、妻のエン、良一郎、妻のかい、友茂、妻のリウ、譲、その他、若くして没した者の名が刻む。

*塩沢護の長男は第10代養命酒製造(株)社長の塩沢太朗、次男は塩沢公朗で北野建設専務。公朗の妻はフジタ会長の藤田一暁の娘の衣佐。

*親戚の養命酒製造社長を務めた塩沢伊八郎の子に、文芸評論家、電気工学者の中沢臨川(重雄)、海軍大将の塩沢幸一(幸市)らがいる。


【養命酒】
 養命酒の正式な商品名は「薬用養命酒(やくようようめいしゅ)」である。14種類の生薬により、滋養強壮効果があるとして販売されている。
 1602(慶長7)信州伊那の谷・大草の塩沢宗閑翁が雪の中に倒れていた老人を助けた際に、お礼として薬用酒の製法を伝えたことが養命酒の起源とされる。 翌年には徳川家康に献上し、「天下御免万病養命酒」と製造の免許をうけた。 その象徴として、”飛龍”を目印として使用することを許された。 以来、この飛龍が養命酒のトレードマークとなり、日本では最も古い 商標の一つといわれている。
 代々、塩沢家にて製造される。養命酒はできあがるまでに2300日も要し、またその製法は、一子相伝の秘法であったとされていたが、1923(T12)製造事業を株式会社天龍舘として会社組織に改め東京に進出。 当時はブドウ酒瓶に詰め、580ml入りで小売価格2円(大卒初任給が50円の時代)であった。 1930(S5)より新聞や雑誌での広告活動により一気に全国区となった。塩沢一族の海軍大将の塩沢幸一と同期である山本五十六(7-1-特-2)が養命酒の愛飲家であり、ロンドン海軍軍縮会議に持参した事がきっかけで海外でも知られるようになる。
 '51社名を「養命酒製造株式会社」に改称し現在に至る。現在の社長は2004.6.29(H16)叔父の塩沢崇浩が会長となり、塩沢太朗が就任。


 


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