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しんかい たけたろう

新海竹太郎

しんかい たけたろう

1868.3.3(慶応4.2.10)〜  1927.3.12(昭和2)

明治・大正期の彫刻家

埋葬場所: 3区 1種 34側 9番

 出羽(山形県)出身。宗松・サダの長男として生まれる。生家は山形市で代々仏師だった。号は古竹。少年時代に日本画を学んだ。1886(M19)陸軍士官を志し上京し、1888徴兵され近衛騎兵大隊に入営。しかし士官候補生試験に落ち失意の中、手遊びで作った馬の木彫が隊内で評判を呼び、上官の薦めもあって彫刻家への転身を志すようになる。
 1891(M24)除隊し、彫刻家の後藤貞行に彫技、浅井忠にデッサン、小倉惣次郎に塑造を学んだ。騎兵隊に所属していた経験から馬の像を得意とし、1893『小松宮彰仁親王像』(木彫)、1896『北白川宮能久親王騎馬銅像』の制作を軍から依頼され着手、1899原型を完成させ、翌年に鋳造、1902設置された。他に『田村怡與三中将騎馬像』(1907)、『南部利祥伯爵騎馬像』(1908)、『騎兵』(1914)、『福島安正大将騎馬像』(1915)、『元帥大山巖公爵騎馬像』(1918)など馬に乗った軍人の像を手掛けた。
 この間、1898日本美術院の創立に際し正員となり、1899パリ国際博覧会の鑑査官となる。1900ドイツに留学しベルリン美術学校にてヘルテスに学ぶ。'02帰国後、中村不折(3-1-15-10)らが創設した太平洋画会会員になる。同年第1回太平洋画会展に石膏で制作した少女浮絵の凹型『少女レリーフ』を出品。以降、『ホーマー像』など太平洋画会の中心人物として活動。'04太平洋画会研究所が創設されると彫刻部の主宰となり、後進の指導にあたり中原悌二郎、朝倉文夫、堀進二ら後に日本を代表する多くの彫刻家を育てた。
 '07文部省展覧会(文展)開設と共に第1回より彫刻部の審査委員を務める。同時に第1回文展に『あゆみ』(1907)、第2回文展に『ふたり』『旅行』『羅漢』(1908)、第3回文展に『原人』(1909)、第5回文展に『一致』『鉄槌』『一休和尚』(1911)、第7回文展に『価千金』『嗚呼老矣』『満足』(1913)、第8回文展に『全力』『勤勉』(1914)、第10回文展に『龍樹』『甲種合格』(1916)、第11回文展に『円満』(1917)の作品を出品した。その他の代表作に『岩崎弥之助男爵胸像』(1913)、『松井直吉博士胸像』(1914)、『前島密男爵像』(1916)、『九代目団十郎「暫」像』(1917)、『青山胤通像』(1920)、『有栖川宮威仁親王像』(1921)、『ジョサイア・コンドル像』(1922)、『伊藤博文公爵胸像』(1926)などの著名な人物の像の他、『ひれふる山』『深淵』(1914)、『文殊菩薩』(1915)、『不動』(1920)、『森鴎外デスマスク』(1922)なども手掛けた。
 現実感の中にも抒情味をたたえた写実的な作風からしだいに単純化された形態のうちに枯淡な味わいをもつ東洋的な静的表現に移った。'17.6.11(T6)帝室技芸員、'19帝国芸術院会員。明治末期から大正にかけての洋風彫塑の発展に尽くした。心臓病のため逝去。享年59歳。

<コンサイス日本人名事典>
<ブリタニカ国際大百科事典>
<東京文化財研究所:彫刻家新海竹太郎作品集など>


墓所

*墓石は和型「新海竹太郎之墓」。裏面に「昭和二年十一月 新海覚雄建之」と刻む。墓誌はない。戒名は精芸院又新古竹居士。

*長男の新海覚雄(同墓)は画家。甥に彫刻家の新海竹蔵(1897-1968)。


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