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しもむら ひこいち

下村彦一

しもむら ひこいち

1900(明治33)〜 1995.4.18(平成7)

昭和期の地理学者

埋葬場所: 16区 1種 8側

 東京都出身。父は教育者・国史学者の下村三四吉、よし(共に同墓)の長男。弟にチャタレー事件などを裁いた最高裁判所判事の下村三郎(同墓)がいる。
 自然地理学者として地形・地形区・気候・地図・地理教育などを幅広く研究した。地形学を専門とし、1928(S3)広島の上根峠の地形は河川争奪地形として発表。 '33江ノ川囘春谷の地形を研究。'34岩波講座地理学で、四国中央を東西に走る壮年期の山脈の西南日本外帯を四国山地・海成段丘・高知平野の三地形区に区分した際にこれを「四国山地」という名称で初めて使用、以降「四国山地」と定着した。
 戦時中は第二総軍研究所に属し、'45.5学徒班の引率隊長として任命された。5月3日の朝、下村隊長に引率された学徒班13人は、第二総軍司令部に出動し「兵要地図班」に配属された。 地図班は兵舎の東の一隅にあり、将校・下士官・学徒の総勢20数人で、米軍の本土上陸作戦に備えて、九州・四国・中国方面司令部へ発送する軍の機密作戦用地図の作成であった。 戦略資料を調べながら、分析された内容を数字や記号・暗号に置き替え、上陸予想地点を中心に、5万分の1の地形図、分図の中に記入していく作業である。できあがった原図は、印刷機で仕上げられ、地方の軍管区司令部へ発送された。
 戦後は、'51『広島湾内に於ける島嶼群の地貌誌論』、'55『地理教育と視覺法としての映畫』、'57『社会科地理の進展に寄す』、'60『始良沈水カルデラの地形区分』、'61『華南風物詩誌』『広島県政展を観る』、'62『台風記補遺』、'63『桜島火山の有史時代における噴火記録の地理学的解釈』などを発表。
 '64広島大学文学部地理学科教授として着任。'65広島県山県郡にある深入山(しんにゅうざん)山頂部より、周氷河地形と考えられる、構造土・ブロックストームを発見、報告した。 '66『メルカトール地図投影図法客考』を発表。'71広島大学を停年退官、広島大学名誉教授。退官後も研究は続け、'72『桜島火山の山頂火口形』、'74『桜島火山北東山麓の文明 安永両年間の溶岩流形』 (岡山俊雄先生古稀記念 地理学特集) などを発表。 主な著書に『教養人文地理』『地理教授論』『海岸地形』『地理学評論』などがある。

<日本地理学人物事典など多数>


墓所

*墓石は和型「下村家之墓」、裏面「昭和十五年十二月 下村彦一 建之」。左側に墓誌がある。下村三四吉の刻みから始まり、戒名は清純院篤學宏明大居士。三四吉の妻は よし。下村三郎は「正三位 勲一等 最高裁判所判事 純真院俊浄参郎大居士」と没年月日が刻む。三郎の妻は登美子(H18歿)。兄の下村彦一は「広島大学名誉教授」と刻み戒名はない。彦一の妻は綾子。


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