メイン » » » 四條隆
しじょう たかのり

四條隆

しじょう たかのり

1907.4.3(明治40)〜 1977.11.13(昭和52)

昭和期の侯爵、政治家、獣医師

埋葬場所: 11区 2種 2側

 四條家は、羽林家の家格を持つ公家。藤原北家藤原魚名流。家業は料理包丁道・笙。家紋は田字草。江戸時代の家禄は180石。藤原房前の子左大臣藤原魚名を祖とする善勝寺流藤原氏の嫡流。魚名の13代後裔の四條隆季が平安時代末期に四條を名乗る。
 父方祖父は公家で元老院議官、後陽成天皇(第107代天皇)の男系七世子孫である四條隆謌(1828-1898)。尊皇攘夷、倒幕派の公卿として国事に奔走し、三條実美らとともに七卿落ちの憂き目にもあったが、明治維新後、復権し陸軍に入り陸軍中将にまで累進し侯爵に叙せられた。母方祖父は徳川幕府15代将軍の徳川慶喜。父は侯爵、陸軍少佐、侯爵議員の四條隆愛。母は徳川慶喜の十女の糸子。長男として生まれる。
 1933(S8)東京帝国大学農学部獣医学科卒業。大学院に進む。'35 東京帝国大学嘱託となり、農学部講師として教壇にあがる。また獣医師試験委員などを務めた。
 '38.12.1 父の四条隆愛の死去に伴い家督を相続し、38代目当主となる。同時に侯爵を襲爵し、貴族院侯爵議員に就任。火曜会に所属し、'47.5.2 貴族院廃止まで在任した。
 戦前戦後を通じて獣医師として著書も刊行している。主な著書に『馬のために』(1943)、『家畜診療』(1948)、『家畜臨床検査手技』(1950)がある。他に千代田開発社長を務めた。従4位 勲4等。享年70歳。

<華族歴史大事典>
<平成新修旧華族家系大成>
<人事興信録>


しじょう たかのり

*墓石は和型、正面は四條隆と妻の玲子の戒名「成院殿妙厚玄宗日新大居士 / 室 恵照院殿妙秀日香大姉」。右面「従四位 元侯爵」と刻み、俗名・没年月日。行年が刻む。並んで妻の四條玲子が刻む。左面「昭和五十五年三月彼岸 四條玲子 建之」。裏面に「白木紀雄」(H19.8.14歿・行年66才)が刻む。なお線香立てに「四條」と刻む。

*四條隆の前妻は和歌山新聞社社長などを務めた由良浅次郎の四女の益子。後妻は曽根虎之助の二女の玲子。四條隆と玲子は子が恵まれなかったため、奥平守雄の娘の順子(1941生)を養子に迎える。順子の夫が白木紀雄である。

*祖父の四條隆謌、父の四條隆愛の墓は京都府京都市左京区の法鏡山正法華院「妙傳寺」(日蓮宗)にある。


【七卿落ち】
 1863(文久3)薩摩藩・会津藩などの公武合体派が画策した八月十八日の政変で失脚した尊王攘夷派の7人の公家が京都を追放される。三條実美、三條西季知、東久世通禧、錦小路頼徳、澤宣嘉、壬生基修、四條隆謌が七卿落ちとなり、京都を追放され、長州藩へと落ち延び、次いで太宰府に移った。官位が剥奪されたが、1867(慶応3.12)王政復古の大号令の前夜、朝議にて赦免され、官位や諱が復され明治新政府の参与となった。多磨霊園には追放された関連者として、四条隆謌の孫の四條隆の他に、当事者の壬生基修(21-1-12-10)、三條実美と兄弟の河鰭実文(21-1-10)らの墓がある。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・さ | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。