加賀金沢藩士。通称は順之助。字が藤篤。号を慥爾、有磯、顧堂など。加賀藩士の千秋範為の子。
加賀藩校明倫堂を経て、江戸昌平黌(しょうへいこう)に学び舎長となる。1845(弘化2)帰藩して藩校明倫堂助教、ときの藩の世子前田慶寧(よしやす)の侍講を兼ねた。
時事を痛論し、尊攘を主張、数少ない加賀藩尊攘派の中心となる。著作の『治穢多之議(えたおさむるのぎ)』は儒教的平等観に基づいた解放論を主張したもので、部落解放論の嚆矢(こうし)とされる。これは人権を尊重して部落解放を主張した初めての例である。
1864(元治1)慶寧の側近にあって参謀を勤め、慶寧に従って京都に上る。7月19日の禁門の変に際しては、長州藩のために斡旋したが失敗。
萩藩との衝突をさけるため慶寧の京都からの撤退を主張し、ともに帰藩するが、幕府をはばかる俗論派にその罪を問われて、小松で捕らえられ、同年10月18日切腹を命ぜられ、自刃した。享年49歳。没後、1891(M24)贈正5位。