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みやじ ひさえ

宮地久衛

みやじ ひさえ

1876.11.6(明治9)〜 1939.2.18(昭和14)

明治・大正・昭和期の陸軍軍人(大佐)、
社会事業家(部落解放)

埋葬場所: 21区 1種 7側 5番

 高知県宿毛市小筑紫村田ノ浦出身。宮地重政の長男として生まれる。祖父の重勝は、幡多郡津野川の郷士であるが1856(安政3)伊賀家に仕え、田ノ浦・津(都)賀川両村の庄屋及び戸長を勤めた。3才の時に母の離別により祖母の寅に育てられた。
 1892(M25)中村小学校高等科を卒業し、高知海南学校に入学するも学資が続かず、2年で退学し、1896入営後、陸軍士官学校、騎兵実施学校などに学ぶ。 1902(M35)騎兵少尉となる。日露戦争には騎兵第十五連隊付として出兵。以来、軍用鳩調査委員、早稲田大学配属将校などを歴任し、'28(S3)陸軍大佐に進み、騎兵第一連隊長に補せられたが、'30(S5)侍命。
 この間、'20(T9)帝国公道会に入り、翌年、公道会副会長の大江天也の死後は、軍務に精励する傍らその意志を継いで融和事業に尽し、'27(S2)財団法人中央融和事業協会の融和部長(後に理事)となった。 退官後、専ら融和運動に身を投じ、融和講習会の講師となって全国をまわり、'30東京府多摩村に「兄弟荘」を建て、'32東京社会事業協会融和部長となった。 また移民問題調査のために満洲に渡り、匪賊を帰順せしめて家理教(チャリ)を助成指導し、東光会を設立するなど日満の融和親善を計り、移民による融和事業の拡大強化に奔走した。 部落解放運動の中心的存在であり、同和事業功労者である。世田谷区代田の自宅で病没。享年62歳。従四位 勲三等 功五級。享年64歳。 没後、'41.11多摩村船ヶ台(兄弟荘)に全国有志の発起により、一丈三尺の「宮地先生留魂碑」(題字は前内閣総理大臣勲一等の平沼騏一郎)が建立された。また、'43『宮地久衛大佐伝』が刊行された。

<高知県人名事典>
<宿毛市史>


 


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