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さわだ かめ

澤田 亀

さわだ かめ

1863.2.5(文久3)〜 1948.3.26(昭和23)

明治・大正・昭和期の裁縫教育者

埋葬場所: 4区 1種 26側 2番

 高知本町(高知県)出身。刀研ぎ師の笹村茂之の長女として生まれる。旧姓は笹村。別名は亀子、亀代子。1878(M11)15歳で鴨田村能茶山(のうさやま)の20歳の澤田栄之助に嫁ぐ。
 結婚後、藤村裁縫場で裁縫の修業や自宅で裁縫の個人教授等を行っていた。1893(M26)夫が病死、その時、長男の稲衛は13歳、二男の亀良は10歳、三男の茂は6歳、四男の恭憲は3歳だった。 幼い子供達を養うには自分の自立が必要と思い、幸い田畑を多く所有していたので、その田畑を少しづつ売っては自分や子供達の教育費に使った。 そして、亀は小学校の裁縫専科教員免許の取得に励み、長男は高知中学から東京一橋高等商業学校へ、二男、三男、四男は海南中学から陸軍幼年学校へと進んだ。
 1898(M31)東京の本郷湯島にあった、東京裁縫女学校速成科(渡邊裁縫学校)に学び、1900卒業、小学校の准教員の資格を取得。高知県の佐川実業学校の裁縫教員を勤める。 亀は裁縫塾を開きたかったが、既に高知では私塾が盛んであった。親類が松山地方裁判所判事として赴任、三男の茂が広島の幼年学校に居た事、松山には裁縫塾が無かった事等が相まって、39歳の時に、愛媛県松山市で塾を開く事を決した。
 1901.4.20(M34)私立松山裁縫傳習所を設立。生徒100名を募集し、和裁・洋裁および小笠原流の礼法を教授した。翌年、私立学校設置願いを県に提出、改組して澤田裁縫女学校を開校。 '06には生徒増加のため松山市一番町の元大林区署跡の新校舎に移転。授業は裁縫科のほかにも修身、読書、算術、家事等、女性にとって家政上必要な学科も設けた。 この頃、裁縫学校が続々と設立され、各校間の競争は激しく、学校経営に苦労もあり、また世間的にも、統合整理すべきだという意見も出始めてきていた。 '08澤田裁縫女学校と家政女学會とが合併し、愛媛実科女学校を設立して校長となる。'11社団法人済美女学會設立申請、愛媛実科女学校は勝山高等女学校と合併し済美高等女学校・済美女学校が誕生した。
 '28(S3)65歳まで教壇に立ち続けた。教壇を離れてからは、寄宿舎に残り、舎監として終生、寄宿生の世話を続けた。 この間、'19(T8)四男の恭憲は陸大首席で卒業し将来を期待されていたが腸チフスで急死。'35(S10)二男の亀良が満州で病死(陸軍大尉)。 '45.7松山は空襲を受け、済美女学校や寄宿舎も焼け落ち、市内伊台村に住む長男宅に逃れる。 80歳を過ぎた亀は自分達が育てた学校の焼失や、三男の茂(陸軍中将)の戦犯容疑等で精神的身体的打撃の大きさは計り知れなかった。しかし学校の再建を願って、体調の良い時には学校に足を運んだ。
 '46.6本校で授業開始。'48.3.26(S22)済美高等学校に改組、亀は学校再建の槌音に安堵の笑みを浮かべながら松山市伊台の長男宅で息を引き取る。享年85歳。 孫に哲学者・慶応大学名誉教授の澤田允茂(同墓)、生物学者・愛媛大学名誉教授の澤田允明がいる(共に茂の子)。 なお、済美高等学校はその後、長年女子高であったが、2002(H14)男女共学となり、2004野球部が史上最短の創部3年目にして甲子園初出場・初優勝(春:優勝、夏:準優勝)した。

<『澤田亀の思い出』著:澤田允明>
<曾孫にあたられる澤田誠様から情報提供>


墓所

*墓石は「澤田家之墓」。入口に「土佐国能茶山」とある。


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