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さかい しゅんじ

堺 駿二

さかい しゅんじ

1913.12.10(大正2)〜 1968.8.10(昭和43)

昭和期の喜劇俳優

埋葬場所: 3区 1種 29側(栗原家)

 東京本所(墨田区錦糸町)出身。父の栗原重吉(同墓)は東京(本所)の桶屋を営む。母はタケ(同墓)。8人兄弟の末子。本名は栗原正至。長兄は浪曲師の初代 港家小柳丸(同墓・栗原留吉)。父方の甥に太神楽曲芸師ボンボンブラザーズの鏡味繁二郎(栗原重夫)がいる。妻の千代子(同墓)は三浦たま子の名で松竹少女歌劇団員。3男1女を儲け、末の子が歌手・タレントの堺正章。正章の元妻はタレントの岡田美里(後に離婚)、長女はデザイナーの栗原菊乃、次女は女優の堺小春がおり孫にあたる。
 9歳の時に父の重吉が亡くなる。芝居好きの母の勧めで、11歳の時に尋常小学校を中退して新派の伊村義雄一座に入る。その時の芸名を小村正雄とし、子役ながら殺陣や女形を演じ浅草公園六区の公園劇場を中心に活躍。1932(S7)アメリカで活躍していた早川雪洲の舞台を見て衝撃を受け、兄の港家小柳丸のツテで早川雪洲一座に弟子入り。「堺駿二」の芸名を貰う。雪洲と栗原の間に境をつけたいと早川が思ったことが「堺」と命名した由来。「駿二」は、雪洲の洲(しゅ)に由来。雪洲の付き人も兼ねながら舞台に立つ。映画「新しき土」にエキストラで初出演。早川一座が休演中は南田一郎という名で地方公演に出た。この頃、松竹少女歌劇団の新人踊り子であった幹千代子(三浦たま子)と結婚。
 '35雪洲が海外撮影のため日本不在となったため、浅草オペラ館のヤパンモカル劇団に入り清水金一とコンビを組み浅草の軽演劇およびトーキー初期を彩るミュージカル・コメディのスターとして人気を博した。'40清水が東宝専属になり映画界に移り、コンビ解散。堺は俳優を辞め、伊東の温泉旅館の番頭や、山梨に移り玩具屋経営を行うが全て長続きしなかった。'42東宝と契約が切れた清水からの誘いで軽演劇界に復帰。吉本興業の傘下に入り、東京吉本の浅草花月劇場で新生喜劇座を結成。しかし、清水との考えの相違から脱退し、'43水の江瀧子の劇団たんぽぽに参加。前年に旗揚げした劇団たんぽぽは元松竹歌劇の団員が多く少女歌劇の亜流扱いで評判が良くなかった。そこに、堺、有島一郎、田崎潤らの男性俳優が加わったことで、ニコライ・ゴーゴリ作の戯曲「検察官」をミュージカル化した「おしゃべり村」が大当たりし、同作をもって全国各地で公演を行った。しかし、'44堺に赤紙が届き出征。この間、瀧子が堺の家族に給与を出し続け金銭面を支えた。戦地に行くことなく横須賀海兵団の炊事係として終戦を迎える。
 戦後、1946(S21)松竹大船撮影所に入社。同年に正章が誕生。短編映画「破られた手風琴」で主役(最初で最後の主役)。「ミキシンの拳闘王」「シミキンのスポーツ王」などに出演した。'52フリーとなり、現代劇・時代劇を問わずコミカルな演技で数多く映画に出演、とくに喜劇の神様とよばれる斎藤寅二郎監督の作品には、'51「とんぼ返り道中」から、'57「坊ちゃん大学」まで40本近くに顔を出している。なお、昭和28年度は20本、昭和29年度は18本、昭和30年度は25本の映画に出演した。
 東宝ミュージカルの舞台でも「雲の上団五郎一座」などで活躍。テレビでもベテランのコメディアンぶりを発揮し、'62「てんもんや三度笠」第一回には特別ゲストとして出演。コミカルな名バイプレイヤーとして、250本以上の映画に出演した名脇役者。'68新宿コマ劇場の舞台出演中に脳溢血で倒れ急逝。享年54歳。亡くなった時、息子の堺正章は22歳で、グループ・サウンズの「ザ・スパイダース」のボーカル担当として人気絶頂期の時であった。

<日本芸能人名事典>
<NHK『ファミリーヒストリー』
「堺正章〜父は伝説の喜劇役者 引き継がれる覚悟〜」>


墓所

*墓正面「先祖代々之墓」と刻み、台石に「栗原」とある。左側に墓誌が建ち、重吉、タケ、留吉、千代子、正至、玉枝、留男、規夫の順番で、戒名、没年月日、俗名、行年が刻む。戒名は光雅院映駿日正居士。「堺駿二」の刻みはない。

*栗原家の墓は保元寺(東京都台東区橋場)にあったが区画整理により多磨霊園に移転改葬した。なお早川雪洲の墓は東京都世田谷区にある松陰神社。

※堺駿二の墓は「鎌倉霊園」であると多くのサイトで紹介されているが未確認。


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