東京出身。旧姓は幹千代子。本名は栗原千代子。紙問屋の娘として生まれた令嬢。
1930年代の歌劇団は日本の女性歌劇史上初めて男性様に断髪した男役「男装の麗人・ターキー」で国民的人気を博した「水の江瀧子」が全盛期だった。歌劇団の応募者は毎年1,000人の中から30人しか選ばれない狭き門である。千代子はそれに応募をして見事採用された。
1932(S7)松竹少女歌劇部(松竹少女歌劇団)入団。芸名は三浦たま子。研究生として活動を始める。入団当時は東京での人気定着を図る宝塚少女歌劇が新橋演舞場で公演を行い、東京松竹は築地川対岸の東京劇場で上演をし、「上品な宝塚、大衆的な松竹」と両方共に人気を得ていた。
'33当時18歳であった水の江瀧子が争議委員長として先頭に立ち、歌劇団の待遇改善を求めた労働争議が起こした(ターキー・ストライキ)。10代から20代の少女部員を中心とした争議は世間の関心を集め、各誌は「桃色争議」と書き立てた。瀧子は松竹演劇部を解雇させられ、経営側は復帰条件を呑んで帰参した少女部員による公演予定を発表するが、瀧子ら少女部員230名は神奈川県の湯河原温泉の大旅館で立て籠もりを始めた。世間は瀧子ら側に同調。帰参した少女部員たちを「お詫びガール」と揶揄し、瀧子ら立て籠もり少女部員を「頑張りガール」と呼んだ。結果的に、警視庁が争議団の本部などを一斉捜索し、思想犯の疑いで瀧子ら46名を検挙するも即日釈放。争議中に解雇された24名のうち5名は無条件復帰するが、瀧子含む19名は2ヵ月間の謹慎処分となった。この争議で退団者も出したが、週休制と最低賃金の設定に成功したため争議団の勝利に終わった。
争議に巻き込まれた千代子がどのタイミングで歌劇団を離れたかは不明だが、この争議をきっかけに約2年の歌劇団を離れ引退。堺駿二(同墓)と結婚し家庭に入った。その後、3男1女を儲け、末の子が歌手・タレントの堺正章である。享年48歳。