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さいとう ふみね

斎藤文根

さいとう ふみね

1895.12.17(明治28)〜 1990.4.13(平成2)

大正・昭和期の海軍軍人(技術少将)

埋葬場所: 5区 1種 2側

 埼玉県出身。父は歴史学者の斎藤阿具・八重(共に同墓)の長男として生まれる。
 1919(T8)海軍造機学生として勉強を始め、翌年、東京帝国大学工科大学機械工学科卒業し、海軍造機中尉として任官し横鎮附となり、同年末に横工廠附に転任。 '21金剛乗組、横工廠造機部副部員、'22技手養成所教官、年末に大尉となり横工廠造機部部員に昇格。 '25舞要部員(工作部)、'27(S2)艦本造船監督官となり米国出張、年末に少佐となった。'29帰朝し、佐工廠造機部部員。 '31艦本部員(四部)、海軍大学教官を兼任、'32中佐となる。'35呉工廠造機部部員、'36艦本造船監督官、'37.12.1海軍造機大佐。 '38.1.7神戸監理官を兼務、3.1横工廠造機部部員、工機校教官を兼務、'39.11.15 広工廠機関実験部長となった。 「造機」から「技術」に名称が変更したことに伴い、'42.11.1海軍技術大佐。'43.2.15横工廠出仕、同.5.1海軍技術少将。 太平洋戦争中は、'44.5.20呉工廠出仕、11.5呉工廠造機部長。終戦後、'45.11.1呉鎮附、9日後の11.10予備役。
 日本とオランダの交渉を研究し、ヘンドリック・ドゥーフ(ヅーフ)、フィッセルの日本見聞記を訳した。父の阿具が刊行した『ヅーフ日本回想録』の校訂を手伝っている。享年94歳。
 太平洋戦争末期の'45.4、戦艦大和の沖縄特攻出撃の際、「不要物件陸揚げ(搬出)」された後、大和の建造にも携わった呉工廠造機部長であった斎藤文根に、大和の士官室に飾られていた画家の中村研一(1895-1967)が'41呉海軍工廠の依頼で制作した「みほヶ関」(横52センチ、縦44センチ)の油絵を記念として手渡されたという。 2007(H19)斎藤文根の孫にあたる亀岡純一氏が呉市海事歴史科学館「大和ミュージアム」に寄贈された。 ミュージアムの戸高一成館長は、司令長官室には横山大観の「富士山」、艦長室には川合玉堂の「三笠山」がそれぞれ飾られていたが、この2点の行方はまだ確認されていないと話している。

<帝国海軍提督総覧>
<戦艦「大和」:士官室飾った風景画、所蔵者から帰還 常設展示へ 
/広島 2007年10月9日毎日新聞>


墓所

*墓石は和型「斎藤家之墓」。右側に墓誌があり俗名、生没年月日、行年が刻む。戒名はない。


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