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のだ きゅうほ

野田九浦

のだ きゅうほ

1879.12.22(明治12)〜 1971.11.2(昭和46)

明治・大正・昭和期の日本画家

埋葬場所: 22区 1種 40側 1番

 東京下谷出身。本名は道三。祖父は江戸後期に著名な儒学・漢学者の野田笛浦(1799-1859)。父は函館税関長を務めた人物。 その3男として生まれる。兄に海軍中将の野田鶴雄(同墓)、弟に脚本家の野田高梧(同墓)。
 4歳の時に父が函館税関長となったため、函館で育つ。1895(M28)上京し、東京美術学校日本画科に入学。寺崎広業に師事。 1898岡倉天心排斥運動により退学。正岡子規に俳句を学び、また白馬会研究所で黒田清輝に絵を学ぶ。 1907(M40)第1回文展に『辻説法』を出品して二等賞となり、毎回発表して好評を拍す。 同年、大阪朝日新聞社に入社し、夏目漱石の「坑夫」の挿絵を描くなど、'17(T6)まで勤務した。
 この間、'12北野恒富と大正美術会を創立。'17第11回文展で特選。 歴史上の人物を主題にした作品が得意で、堅実な仕事の底に、歴史に対する深い素養をそなえていた。 また狩野探幽の研究でも一家をなし、著書に『狩野探幽』がある。'47(S22)帝国芸術院会員。 その他、文展・日展の審査員、日本画院同人、画塾煌土社を設立、金沢美術工芸大学教授など多方面で活躍した。 代表作は『旅人』『恵林寺の快川』など。享年91歳。作品および遺品は武蔵野市に寄贈され、武蔵野市立吉祥寺美術館に収蔵されている。

<コンサイス日本人名事典>
<世界人名辞典など>


のだ つるお

*墓所内は正面に洋型の「野田家の墓」、並ぶように右側に和型の「野田鶴雄 盛子 墓」、左側に「野田鶴雄胸像」が建つ。 「野田家墓」の墓石裏面は墓誌となっており、野田鶴雄、野田秀二、野田道三(九浦)、野田教四郎、野田高梧の兄弟全員(5男兄弟)と妻らの名が刻む。九浦は本名の野田道三として刻む。


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