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のだ こうご

野田高梧

のだ こうご

1893.11.19(明治26)〜 1968.9.23(昭和43)

昭和期の脚本家

埋葬場所: 22区 1種 40側 1番

  北海道函館出身。祖父は江戸後期に著名な儒学・漢学者の野田笛浦(1799-1859)。父は函館税関長を務めた人物。その5男として生まれる。兄に海軍中将の野田鶴雄(同墓)、日本画家の野田九浦(同墓)。
 1927(S2)デビュー作『懺悔の刃』(松竹蒲田・サイレント作品)に始まり、'60(S35)遺作『秋刀魚の味』(松竹大船)まで、小津作品の大半で脚本を記していた。特に'49(S24)『晩春』(松竹大船)以降は13本連続で小津と共同執筆している。 この時期、神奈川県茅ヶ崎市の旅館・茅ヶ崎館で脚本を小津と執筆し、「晩春」、「麦秋」、「東京物語」といった名作を次々に発表。 中流家庭を舞台に親子の関係や人生の機微を描き、独自のローアングルの手法を磨き上げ、いわゆる"小津調"を確立し日本映画界を代表する巨匠となる小津の右腕として貢献した。しかし、セリフを決めていたのは野田であり、ある意味では前述した「小津調」の一部は「野田調」であるとも考えられるという評論もある(実際、野田が担当していないトーキー初期の何本かを観ると、リズムもセリフもかなり異なっている)。 「東京暮色」以降は蓼科高原(長野県茅野市)の野田家の山荘・雲呼荘(小津安二郎の借りていた別荘は無藝荘)に共に籠って脚本を執筆し、晩年の名作を生み出した。なお野田の娘もシナリオライターで、『東京大空襲−ガラスのうさぎ』(S54・大映)の立原りゅう(山内玲子)氏。その御主人、つまり野田氏の娘婿も同業、『豚と軍艦』(S35・日活)、『私が棄てた女』(S44・日活)、『若者は行く−続・若者たち』(S44・松竹)の山内久氏である。


のだ つるお

*墓所内は正面に洋型の「野田家の墓」、並ぶように左側に和型の「野田鶴雄 盛子 墓」、右側に「野田鶴雄胸像」が建つ。 「野田家墓」の墓石裏面は墓誌となっており、野田鶴雄、野田秀二、野田道三(九浦)、野田教四郎、野田高梧の兄弟全員(5男兄弟)と妻らの名が刻む。

*小津安二郎の墓所は北鎌倉の円覚寺。


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