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にしの ちゅうじろう

西野忠次郎

にしの ちゅうじろう

1878.5.26(明治11)〜 1961.7.6(昭和36)

明治・大正・昭和期の内科学学者

埋葬場所: 6区 1種 9側

 山形県南置賜郡南原村出身。藤田茂八の次男として生まれる。旧姓は藤田。米沢中学校在学中の時に分家した西野慎一の養子となり西野姓となった。 高弟の野並浩蔵は国立東京第二病院内科の副院長を務めた医学博士。また親類に海軍中将の大湊直太郎らがいる。
 第四高等学校を経て、1903(M36)東京帝国大学医科大学卒業。翌年より同大学の病理学教室の助手、'05三浦内科学教室副手、'06〜'13(M39〜T2)伝染病研究所嘱託、'10〜'13(M40〜T2)山形市立病院済生館内科部長、館長として勤務した。 山形県知事を務めていた馬渕鋭太郎が山口県知事へ転任する際に、西野を引っ張り、'13〜'20山口県立病院長に据えた。日本赤十字山口支部病院長。この間、'14医学博士、'18米国出張。
 '20北里柴三郎が中心になり慶應義塾大学に医学部が創設されると、西野は北里門下の臨床の第一人者として医学部教授として招かれ、内科学教室主任に着任した。 '24.5〜'61.7(T13〜S36)没するまで内閣恩給局顧問医を務める。'30.4〜'31.4社団法人日本内科学学会会頭、第28回 日本内科学会総会を主宰、'34保健衛生調査会委員、'38学術振興会第七部会委員(BGC)、'41〜'47学術振興会第四三小委員会(脳溢血の予防)委員長、'44慶応義塾大学医学部長兼病院長などを歴任した。 '46慶応義塾大学名誉教授。'50大相撲に横綱審議委員会が発足され委員に推挙された。'58日本学士院会員。主な公職は、中央衛生会委員、薬局方調査会委員、厚生省検定委員、国家試験審査委員、結核予防会委員、ガン研究会理事、らい(ハンセン病)予防会委員等を務めた。主な著書に『臨床四十年』『臨床五十年』『続臨床五十年』などがある。
 国立東京第二病院(国立東京医療センター)院長を現職のまま脳出血の発作にて逝去。享年83歳。正3位勲2等瑞宝章追叙。葬儀は厚生省葬にて営まれた。
 神経系疾患と感染症に係わる優れた業績を残した。'08(M41)草津温泉近郊に在住の「らい(ハンセン病)」について、鼻粘膜分泌物の細菌学的検索によって、ライ病伝播上の意義について発表。 '09(M42)狂犬病の予防接種の後で重篤な副反応が出現することがあることを警告。'10(M43)ジフテリア保菌者の感染源としての意義を究明し、消毒法の改善、血清注射の適応について提言。 '11(M44)独自の新法で「B型パラチフス」と「鼠チフス菌」の分離に成功。'13(T2)細菌性赤痢から得た材料で二つの異型菌を分離。'14(T3)山形県庄内地方に発生した熱性疾患を病理解剖の結果、わが国初めての「発疹チフス」と確認。'24(T13)富山県に発生した奇病を「日本脳炎」と診断し、その病因の追求と治療方針を確立。
 慶応義塾大学医学部長の時の塾長は小泉信三(3-1-17-3)である。小泉が戦災で重傷を負い慶応病院に担ぎ込まれた時、主治医は病状の推移を出張中であった西野と連携連絡を取り合い万全を期した。 小泉は西野について「一の学を究めた多くの優れた学者のように、自ら多くを知ると感ずるよりも、自ら甚だ知らないと感ずる人であった」と評している。

<物故者事典>
<西野忠次郎先生の想い出など>
<森光俊様より情報提供>


*戒名は顕徳院殿国手忠鑑大居士。実子がなかったので、義弟の重孝(宮内庁侍医長・同墓)を養嗣子とした。重孝の娘たちを本当の孫のように可愛がった。


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