東筑摩郡里山辺村(長野県松本市)出身。実子次男は俳優の西村晃(同墓)。旧制松本中学を経て、1908(M41)広島高等師範学校博物学科卒業。代用教員から京都、満洲で小学校長を数年務め、奉天南満医学校で生物学教授。
'15(T4)渡米してコロンビア大学で植物学を学び、'20博士号取得。英国遊学中たまたま出会った新渡戸稲造(7-1-5-11)に認められ、'21帰国して北海道帝国大学附属水産専門部教授となり生物学を講じた。
'27(S2)火山の噴火で阿寒湖の水温が上昇し、そこにしか生息しないマリモが絶滅の危機に瀬していることを知るやマリモ保護に奔走。このマリモの研究により東京帝国大学より理学博士号を取得。
科学随筆を書いたのが機縁で、大学を退官し、大阪毎日新聞論説委員兼学芸部顧問となる。
同社の社会事業部長として全日本保育連盟を結成の際その理事長となって、保育事業の拡充強化に努め、幼稚園の義務制を訴え、「日本のフレーベル(ドイツの教育者)」といわれた。
その後、民国窮民孤児援護会、隣邦児童愛護会などをつくり幼児教育に尽くした。
この間、'28日本で初めて圧縮空気を使って手や頭を動かす人形・人造人間「學天則」を制作した。これを昭和天皇即位を記念した大礼記念京都博覧会に出品。
學天則という名は「天則(自然)に学ぶ」という生物学者らしい考えに基づいて命名された。東洋で初めてのロボットとして観客の注目を集め、'29廣島市鳥瞰昭和産業博覧会や朝鮮博覧会などにも出品された。
荒俣宏の小説「帝都物語」が映画化された際に、西村真琴役を息子の西村晃が演じた。なお、學天則はその後売却されドイツに渡ったが足取りは不明。2008(H20)大阪市が実物大を復元し、大阪市立科学館に展示公開されている。
西村は当時日本が占領していた満州の生物を三年かけて調査研究をし、アイヌ集落の研究をして迫害されていたアイヌの救済に奔走、絶滅寸前であったマリモを研究し保護に力を注ぎ、南洋諸島浮遊生物の研究など幅が広く、牧野富太郎の植物図鑑には、自らの標本を惜しみなく提供したといわれる。
また『科学奇談』ほか一〇冊余りの著書がある。學天則の生みの親である西村は日本のレオナルド・ダ・ビンチと称された。
加えて、'39日中戦争での戦乱の中国に医療奉仕団を率いて乗り込み、軍部の反対を押し切って68名の中国人孤児を日本で引き取り育てた。
保育事業に尽力していた晩年の言葉に「子供をしっかり育てるには、子供だけを切り離して考えちゃだめなんだ。子供と共に、その親も強く育てなきゃいけないんだよ」。享年72歳。